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蒲菖亭(あべの古書店主人)
蒲菖亭(あべの古書店主人)

2023年10月18日

清水達也先生(1)

■清水達也先生と初めてお会いしたのが遊本館だったのか静岡市内の居酒屋だったか、記憶は曖昧である。おそらく1996年の早春だったと思う。
■静岡市は市制百周年の記念イベントにオーディションで選抜した市内在住の小中学生が出演する「静岡市こどもミュージカル」を企画し、これがすこぶる市民の好評を博した。
■宗知信先生を中心にした実行委員会は、このイベントを隔年の上演で継続させた。当初は東京や名古屋の作家や職業演劇人に制作を依頼していたが、回を重ねるうちに、地元の人材を起用して舞台を作ろうという機運が高まってきた。
■そこで作家として白羽の矢が立ったのが清水先生だった。脚本の執筆を依頼された先生は、これを固辞した。自分は文学の人間であって舞台芸術は門外漢である、やって出来ぬものではないだろうが、自分の作品のどれを使ってもよいから、「若い者」に機会を与えてみてはどうか。このように先生は提案し、私が脚本を書くこととなった。
■当時私は三十代の半ばで、清水先生のお名前は静岡新聞社の出版物やいくつかの翻訳書で存じ上げていたが、現実の接点は全くなかった。実のところ、古くは「アングラ文化」昨今では「サブカル(サブカルチャー)」と呼ばれる怪しげな領域が活動拠点だった私は、主流文学と教育が交差する「児童文学」を立ち位置にしている先生と、果たして理念を共有することができるものだろうかと、お会いする前には不安を感じていたのだった。
■その場には、「静岡市こどもミュージカル」のプロデューサーの榊原英寿さん、志太地域のミュージカルに関わっていた杉山稔明さん、私の主宰する劇団にも参加していた大橋淳一さんが同席していた。
■私は初対面の先生に、まず私が「何者でありたいのか」語った。
一、無頼不逞の芝居者であり続ける者、
二、絶望に倦むことのない者、
三、子供たちのためではなく子供たちの側に立つ者、
でありたいと自己紹介をした。
■先生は児童文学者の表情を捨て、「ぼくの名前、『清水達也』というペンネームは、寺山修司が名付け親だ」と私をまっすぐに見据えた。
■それから先生が聞かせてくださったのは、六十~七十年代の地下文化史にさえ記録されなかった驚くべき「歴史」だった。
■二十世紀芸術の巨人の一人である寺山修司と清水先生との交誼は、静岡県文化財団が発行している「しずおかの文化新書」に拙稿が掲載されているので、そちらを参照していただければ幸甚である。
■先生は「無名」の私に、著作の原作使用を許可された。どの作品でも使えるものを自由にアレンジして好きなように「こどもミュージカル」の脚本を創作して構わないとおっしゃった。私は「遊本館」から先生の著書をひとかかえ借り出した。数日後に書き上げた『炎の森の小さな冒険』は、『火くいばあ』と『おばあさんのふしぎなふえ』を素材としたものだった。
■原作のストーリーをほとんど留めぬ脚本に対し、先生は一言も疑問を差し挟まなかった。
■ただ第一稿に目を通された後、どうして前述の二作品を選んだのかと問われた。
■私は、見かけ上のユーモアや優しさや邪気の無さの下に、耐え難い苦しみや「闇」が広がっているように感じたからですと答えた。
■先生は、うん、それが判ったか、と大いに笑い、それから「桜の木の下には…」と梶井基次郎の話を始められた。
■以来、二十世紀の終わりまで、私は先生と「静岡市こどもミュージカル」での共同作業を続けた。
■その間、常に議論してきたのは「悪」の問題だった。
■私はそこに清水達也先生の傑出した児童文学作家「魂」を視たのだが、その話はまた別の機会に。今回は、私と先生の関わりの「発端」でした。

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Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 01:13│Comments(0)依頼原稿
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