2023年10月30日
大杉栄と伊藤野枝
1908年7月25日から8月5日にかけて、10編の短い小説が『東京朝日新聞』に連載された。第1話の結末は、こう締めくくられていた。
100年はもう来ていたのだ、と。
それから75年の後、1983年に病で他界した演出家は、病室のベッド上で最後に謎めいた言葉を言い残した。
100年たったらその意味が判る、と。
65年、時計の針を戻す。1918年、大正7年2月、大杉栄は雑誌「文明批評」にこんな文章を寄稿した。
僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。
5年後、大正12年9月1日、未曾有の大震災が関東を襲った。大杉栄と伊藤野枝の夫妻に被害はなかった。9月3日、伊藤野枝は無事を知らせるハガキを親類に送った。野枝がその生涯の最後に書いた文章は、こう締めくくられていた。
とにかく私共は無事で本当にしあわせです。
それから2週間後、大杉栄と伊藤野枝は殺された。
まもなく100年になる。
100年はもう来ていたのだ、と。
それから75年の後、1983年に病で他界した演出家は、病室のベッド上で最後に謎めいた言葉を言い残した。
100年たったらその意味が判る、と。
65年、時計の針を戻す。1918年、大正7年2月、大杉栄は雑誌「文明批評」にこんな文章を寄稿した。
僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。
5年後、大正12年9月1日、未曾有の大震災が関東を襲った。大杉栄と伊藤野枝の夫妻に被害はなかった。9月3日、伊藤野枝は無事を知らせるハガキを親類に送った。野枝がその生涯の最後に書いた文章は、こう締めくくられていた。
とにかく私共は無事で本当にしあわせです。
それから2週間後、大杉栄と伊藤野枝は殺された。
まもなく100年になる。
2023年10月29日
2002年1月
駿府浪漫バスの巡回コースが昨年の暮れに変更され、あべの古書店が店を構える浅間通りを走るようになった。このバスを利用すると、静岡市中心部の古書店全てを効率よくまわれる。九軒の古書店のうち、実に六店舗の前をバスが通過し、しかも二店の目の前にはバス停まである。他の三軒も停留所から徒歩五分程度で立ち寄ることが出来る。大きな駐車場を持った郊外型の中古本屋に押される一方の街の古書店としては、すこぶる嬉しいクリスマスプレゼントであった。駿府古書店巡りバス。
2023年10月28日
2001年12月
いずれ紙媒体の書籍は電子出版物に駆逐されるといわれている。百科事典はその影響を真っ先に受けた。昭和の高度成長期には百科事典ブームがあり、各出版社がこぞって豪華なセットを刊行、しかもまた飛ぶように売れた。それがいまや部屋の場所ふさぎとなったのか、月に二、三件は百科事典を売りたいという問い合わせがある。「○十万で購入したんだ、おたく古本屋だろ、こういうものは高く買うだろう」と。申し訳ないがこればかりはタダでも引き取れない。百科事典は「知の器」としての機能を終えた。
2023年10月27日
2001年11月
ベストセラーとして爆発的に売れた本は、ブームから数年の後には古書店の百円均一本コーナーに現れる。今なら『らせん』や『FBI心理分析官』は、新本同様の状態のものが百円玉一つで手に入る。ところがベストセラー本も出版後十年以上経過すると、百均どころか店内の棚からも消えてしまう。「トットちゃん」も『サラダ記念日』も、近頃はさっぱり見かけない。かくして、金に糸目は付けぬとは言わぬまでも、○千円までなら出すからこの本を探してほしいと血眼になる人々が発生する。
2023年10月26日
水のように流れる(3)
3
その女性が会場に入ってきたとき、『谷間の百合』は既に開演していた。桟敷席は満員の盛況で、彼女が坐る余地はなかった。当惑したのか、客席の最後尾に立ってなにかブツブツとつぶやいている彼女の様子を見て、これは「異物」になってしまうかなと僕は少々懸念した。
しばらくして、観客に紛れて最前列に座っていた俳優が舞台にあがった。遅れてきた女性は、ぽっかり空いたスペースに素早く移動した。舞台では「観客モドキ」の俳優が、無法者俳優にぺしぺしと頭をはたかれている。くだんの女性が「ダメだよ、叩いたりしちゃ」と大声をあげた。
その後もことあるごとに、彼女は舞台に声を出すのだった。自らの「こころ」を激しく傷つける伝説のストリッパーに、「そんなことない、そんなことないよ」と励ましの言葉をかける。登場人物の台詞に共感すると「そうだね、そうだよ」と周囲をはばかることなく発言する。彼女は「異物」だった。だが、水族館劇場の観客には、彼女を制する者はいなかった。
今から四十年ほど前、静岡大学が移転していった跡地で、演劇センター68/71、通称黒テントが『阿部定の犬』を上演した。興行の世話人は静岡大学の学生―たしか「らせん劇場」の母胎となったグループだと記憶している―だった。観客はほとんどが大学生だったが、その中にローティーンの僕や、酒に酔った「労務者」がいた。酔っぱらいは舞台上で照明を浴びている新井純に、しきりに声をかけていた。「ねーちゃんキレイだなあ、キレイだぞねーちゃん」と阿部定役の新井純を賛美した。
そのうち、眼鏡をかけた、どこから見てもインテリの大学生が酔っぱらいに警報を発令した。「うるさいよ、静かにしてくれよ」。作業着を着た「労務者」は、なおも新井純を讃え続けた。インテリ野郎は立ち上がって酔っぱらいの胸ぐらをつかむと、「酔っぱらってんだろあんた、邪魔だから出てってくれ、迷惑なんだよ」と判決を下し、なけなしの有り金をはたいて(※想像)黒テントの当日チケットを買った(※想像)オッチャンを劇場の外の暗い荒れ地に叩き出した。
インテリ野郎の行為は「正義」だったのだろうか。彼の行為は観客席の総意だったのだろうか。今夜の「飲み代」を観劇チケットに換えたオッチャンの「観る権利」は、舞台上で進行する物語に参加してしまった咎で、剥奪されてしまったのだろうか。インテリ野郎の行為に干渉しなかった劇団側は、観客席は自治空間であるから、客席内でトラブルが生じたらそれは観客同士で処理するべきだと考えているのだろうか。
そして「虚構地獄」に落ちている僕は、あれは劇団の「仕込み」だったのかもしれないとついつい思ってしまう。
水族館劇場の観客席でワアワアやっていた女性は何者だったのだろう。その日、たまたま通りかかった会場でポスターを眼にし、「一条さゆり」の物語だからということで飛び込んできたらしい。終演後、女性は興行世話人を捕まえて、「これで一座のみんなに一杯飲ませてあげて」と酒代を渡していった。
「こころ」の声をそのまま口に出してしまうような人たちには、今の世の中は生きにくいかもしれない。彼らはマイノリティであり、「異物」であり、「ノイズ」であるからだ。
昔々、黒テントの舞台に「こころ」の声を発してしまった異物者は、演劇空間から排除されてしまった。それから四十年後、水族館劇場の舞台に「こころ」の声を投じる異物者は、そこに留まることを許されていた。いったい、そこに境界線を引いたのは何者だったのだろう。
(終わり)
その女性が会場に入ってきたとき、『谷間の百合』は既に開演していた。桟敷席は満員の盛況で、彼女が坐る余地はなかった。当惑したのか、客席の最後尾に立ってなにかブツブツとつぶやいている彼女の様子を見て、これは「異物」になってしまうかなと僕は少々懸念した。
しばらくして、観客に紛れて最前列に座っていた俳優が舞台にあがった。遅れてきた女性は、ぽっかり空いたスペースに素早く移動した。舞台では「観客モドキ」の俳優が、無法者俳優にぺしぺしと頭をはたかれている。くだんの女性が「ダメだよ、叩いたりしちゃ」と大声をあげた。
その後もことあるごとに、彼女は舞台に声を出すのだった。自らの「こころ」を激しく傷つける伝説のストリッパーに、「そんなことない、そんなことないよ」と励ましの言葉をかける。登場人物の台詞に共感すると「そうだね、そうだよ」と周囲をはばかることなく発言する。彼女は「異物」だった。だが、水族館劇場の観客には、彼女を制する者はいなかった。
今から四十年ほど前、静岡大学が移転していった跡地で、演劇センター68/71、通称黒テントが『阿部定の犬』を上演した。興行の世話人は静岡大学の学生―たしか「らせん劇場」の母胎となったグループだと記憶している―だった。観客はほとんどが大学生だったが、その中にローティーンの僕や、酒に酔った「労務者」がいた。酔っぱらいは舞台上で照明を浴びている新井純に、しきりに声をかけていた。「ねーちゃんキレイだなあ、キレイだぞねーちゃん」と阿部定役の新井純を賛美した。
そのうち、眼鏡をかけた、どこから見てもインテリの大学生が酔っぱらいに警報を発令した。「うるさいよ、静かにしてくれよ」。作業着を着た「労務者」は、なおも新井純を讃え続けた。インテリ野郎は立ち上がって酔っぱらいの胸ぐらをつかむと、「酔っぱらってんだろあんた、邪魔だから出てってくれ、迷惑なんだよ」と判決を下し、なけなしの有り金をはたいて(※想像)黒テントの当日チケットを買った(※想像)オッチャンを劇場の外の暗い荒れ地に叩き出した。
インテリ野郎の行為は「正義」だったのだろうか。彼の行為は観客席の総意だったのだろうか。今夜の「飲み代」を観劇チケットに換えたオッチャンの「観る権利」は、舞台上で進行する物語に参加してしまった咎で、剥奪されてしまったのだろうか。インテリ野郎の行為に干渉しなかった劇団側は、観客席は自治空間であるから、客席内でトラブルが生じたらそれは観客同士で処理するべきだと考えているのだろうか。
そして「虚構地獄」に落ちている僕は、あれは劇団の「仕込み」だったのかもしれないとついつい思ってしまう。
水族館劇場の観客席でワアワアやっていた女性は何者だったのだろう。その日、たまたま通りかかった会場でポスターを眼にし、「一条さゆり」の物語だからということで飛び込んできたらしい。終演後、女性は興行世話人を捕まえて、「これで一座のみんなに一杯飲ませてあげて」と酒代を渡していった。
「こころ」の声をそのまま口に出してしまうような人たちには、今の世の中は生きにくいかもしれない。彼らはマイノリティであり、「異物」であり、「ノイズ」であるからだ。
昔々、黒テントの舞台に「こころ」の声を発してしまった異物者は、演劇空間から排除されてしまった。それから四十年後、水族館劇場の舞台に「こころ」の声を投じる異物者は、そこに留まることを許されていた。いったい、そこに境界線を引いたのは何者だったのだろう。
(終わり)
2023年10月26日
水のように流れる(2)
2
僕が観た「驪團」の静岡公演は四回。テント劇場公演の多聞に漏れず、設営場所を転々とした。旗揚げ公演は静岡市立高校前の天昌寺駐車場。次が競輪が開催される折りに駐車場となる小鹿の私有地。最後が町の中心部にある駿府公園。この三ヶ所の公演地は僕が手配したのでよく憶えているのだが、三回目の公演地については正しく語ることができる記憶がほとんどない。たしか静岡大学に近い池田の廃寺跡地だったように思うが、この時は僕は自分たちの劇団の公演に忙殺されていたので「驪團」のサポートに全く関わらず、静岡の世話人は当時「らせん劇場」に在籍していたイワキだけだった。
八十年代前期、反新劇の系譜にある劇団が静岡で興行を打つ際は、僕が主宰する劇団(後の水銀座)と、都築はじめが代表の「らせん劇場」が制作を引き受けた。現在も静岡で活動している「らせん劇場」が全国的に知られているのかマイナーネームなのか、僕は知らない。「らせん劇場」の創立は七十年代中期で、状況劇場や黒テントを静岡に招聘していた静大の学生たちによって結成された。「らせん劇場」が静岡公演を受けた演劇集団を思い出せる限り列記すると、「黒テント」「演劇群・走狗」「演劇団」「赤色劇場」「未知座小劇場」「幻実劇場」「犯罪友の会」「日本維新派化身塾(現・維新派)」「白髪小僧」そして「驪團」と、一時代の裏演劇史を丸ごと抱えたラインナップである。
「らせん劇場」には、「早稲田小劇場→走狗」の役者だった日向倫や、「犯罪友の会」の小川トトが在籍していた。三十年前の「らせん劇場」は、今のあり様が信じがたいダークで危うい集団であった。座員は次々に不幸に陥った。精神が壊れたり、男女の痴情の果てに人間関係が壊れたり、拠点の劇場兼稽古場が廃墟化してゆき近隣住民に排斥されたり、絵に描いたようなアングラ(笑)劇団だった。悪態をついたりゲラゲラ笑ったり泣き叫んだり殴り合ったりしていたが、皆、芝居者なんてものはそんなものだと思っていた。ただ一人、常識人の都築はじめだけが困惑していたのだった。
静岡大学に勤務する真っ当な社会人だったイワキが「らせん劇場」に参加したのは、無頼者たちが去って、劇団が限界集落と化した頃だ。もともとイワキは自主映画を製作する「監督」だったのだが、演劇に関わり始めるとたちまち芝居の奈落に転落してしまう。演劇によってボロボロにされた者たちの怨念を全て背負い、うらやましい程のサイテー人間になってゆく。人が変わることの責任が自分以外にもあるのならば、イワキをクズにした責任の一端は桃山邑たち「驪團」にあり、そして僕にもある。河原者を標榜した桃山たちとつきあい、人間のクズとして演劇する僕とつきあい、イワキは「全てを失う」ことを全く怖れなくなってしまったのだった。
「らせん劇場」からイワキという「悪場所」が消えると、都築はじめは「シズオカ大道芸ワールドカップ」の中心人物に成り上がり、「歴史」を知らぬフツーの人々が入れ替わり立ち替わり座員名簿に名を連ねるようになった。「驪團」が疾駆した八十年代前半が終わり、「水族館劇場」の時代の始まりと同期していた。そうしていつの間にか「らせん劇場」は静岡を代表する劇団となった。
イワキは「水族館劇場」の舞台に立っているらしいが、僕は観ていない。僕が最後に聞いたイワキの噂は、「維新派」が東京汐留で大がかりな野外劇を行った時の逸話。どういう経緯なのか、イワキは「維新派」の照明スタッフとして公演に加わっていた。野外劇場でライト機材のセッティングをしてるところに、写真家の篠山紀信がやって来た。篠山は「東京」をテーマにした連作写真をとっていて、首都のビル群を背景に屹立する「維新派」のセットは魅力的な被写体だった。地面に置いてあったサスペンションライトを篠山はわずかに横に移動させた。設営中の照明機材がカメラのフレーム内に入ってくるので、少しよけたのである。その途端、凄まじい罵声が飛んだ。
「バカヤロー、何やってんだお前、勝手に動かすな、バカヤロー!」
イワキが篠山紀信を馬鹿と怒鳴りつけ、現場にいたイワキを除く全員が凍りついた。
僕たち芝居者・演劇人はサイテーだ。人間のクズだ。怖いものは何もない。
※豆知識として附記しておく。文中に名が出た「日向倫」の細君は、岡部耕大が主宰していた「劇団空間演技」の女優、生方萌。「水族館劇場」の小林虹児と旧知、のはず。
僕が観た「驪團」の静岡公演は四回。テント劇場公演の多聞に漏れず、設営場所を転々とした。旗揚げ公演は静岡市立高校前の天昌寺駐車場。次が競輪が開催される折りに駐車場となる小鹿の私有地。最後が町の中心部にある駿府公園。この三ヶ所の公演地は僕が手配したのでよく憶えているのだが、三回目の公演地については正しく語ることができる記憶がほとんどない。たしか静岡大学に近い池田の廃寺跡地だったように思うが、この時は僕は自分たちの劇団の公演に忙殺されていたので「驪團」のサポートに全く関わらず、静岡の世話人は当時「らせん劇場」に在籍していたイワキだけだった。
八十年代前期、反新劇の系譜にある劇団が静岡で興行を打つ際は、僕が主宰する劇団(後の水銀座)と、都築はじめが代表の「らせん劇場」が制作を引き受けた。現在も静岡で活動している「らせん劇場」が全国的に知られているのかマイナーネームなのか、僕は知らない。「らせん劇場」の創立は七十年代中期で、状況劇場や黒テントを静岡に招聘していた静大の学生たちによって結成された。「らせん劇場」が静岡公演を受けた演劇集団を思い出せる限り列記すると、「黒テント」「演劇群・走狗」「演劇団」「赤色劇場」「未知座小劇場」「幻実劇場」「犯罪友の会」「日本維新派化身塾(現・維新派)」「白髪小僧」そして「驪團」と、一時代の裏演劇史を丸ごと抱えたラインナップである。
「らせん劇場」には、「早稲田小劇場→走狗」の役者だった日向倫や、「犯罪友の会」の小川トトが在籍していた。三十年前の「らせん劇場」は、今のあり様が信じがたいダークで危うい集団であった。座員は次々に不幸に陥った。精神が壊れたり、男女の痴情の果てに人間関係が壊れたり、拠点の劇場兼稽古場が廃墟化してゆき近隣住民に排斥されたり、絵に描いたようなアングラ(笑)劇団だった。悪態をついたりゲラゲラ笑ったり泣き叫んだり殴り合ったりしていたが、皆、芝居者なんてものはそんなものだと思っていた。ただ一人、常識人の都築はじめだけが困惑していたのだった。
静岡大学に勤務する真っ当な社会人だったイワキが「らせん劇場」に参加したのは、無頼者たちが去って、劇団が限界集落と化した頃だ。もともとイワキは自主映画を製作する「監督」だったのだが、演劇に関わり始めるとたちまち芝居の奈落に転落してしまう。演劇によってボロボロにされた者たちの怨念を全て背負い、うらやましい程のサイテー人間になってゆく。人が変わることの責任が自分以外にもあるのならば、イワキをクズにした責任の一端は桃山邑たち「驪團」にあり、そして僕にもある。河原者を標榜した桃山たちとつきあい、人間のクズとして演劇する僕とつきあい、イワキは「全てを失う」ことを全く怖れなくなってしまったのだった。
「らせん劇場」からイワキという「悪場所」が消えると、都築はじめは「シズオカ大道芸ワールドカップ」の中心人物に成り上がり、「歴史」を知らぬフツーの人々が入れ替わり立ち替わり座員名簿に名を連ねるようになった。「驪團」が疾駆した八十年代前半が終わり、「水族館劇場」の時代の始まりと同期していた。そうしていつの間にか「らせん劇場」は静岡を代表する劇団となった。
イワキは「水族館劇場」の舞台に立っているらしいが、僕は観ていない。僕が最後に聞いたイワキの噂は、「維新派」が東京汐留で大がかりな野外劇を行った時の逸話。どういう経緯なのか、イワキは「維新派」の照明スタッフとして公演に加わっていた。野外劇場でライト機材のセッティングをしてるところに、写真家の篠山紀信がやって来た。篠山は「東京」をテーマにした連作写真をとっていて、首都のビル群を背景に屹立する「維新派」のセットは魅力的な被写体だった。地面に置いてあったサスペンションライトを篠山はわずかに横に移動させた。設営中の照明機材がカメラのフレーム内に入ってくるので、少しよけたのである。その途端、凄まじい罵声が飛んだ。
「バカヤロー、何やってんだお前、勝手に動かすな、バカヤロー!」
イワキが篠山紀信を馬鹿と怒鳴りつけ、現場にいたイワキを除く全員が凍りついた。
僕たち芝居者・演劇人はサイテーだ。人間のクズだ。怖いものは何もない。
※豆知識として附記しておく。文中に名が出た「日向倫」の細君は、岡部耕大が主宰していた「劇団空間演技」の女優、生方萌。「水族館劇場」の小林虹児と旧知、のはず。
2023年10月24日
水のように流れる(1)
■三十年前、「驪團」が登場した時、ごく普通の漢字力しか持たない者には、その劇団名を読むために漢字辞典が必要だった。「團」は「団」ではなく旧字の「團」で表記された。むやみに画数の多い文字をグループ名に使いたがる暴走族のセンスに似ていた。
■辞書引きの手間を惜しむような連中は、「驪團」に冠詞のようについていたキャッチフレーズの《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を劇団名の代用にした。
■もしいま《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を標榜する劇団がいたとしたら、僕はためらわずにそいつらを中二病認定する。でも八十年代初頭にはそれがパンクだった。破壊衝動二〇〇%の小僧どもには、《セックス、ドラッグ、ロックンロール》とか《アナーキー・イン・ザ・UK》のように響く「音」だったのだ。
「ところでアナーキック・バイオレンス・スペクタクルって、いったいどういう意味なんだ?」と誰かが言い、「アナーキーでバイオレンスなスペクタクルのことなんじゃねーの」と誰かが答え、僕たちはそれで「なるほど」と納得したのだった。そういう時代だった。
■三十年前、僕は「アングラ」の打倒という問題に直面していた。僕たちの劇団は演劇をテント劇場で上演したり地下室で上演したり路上で上演したりライブハウスで上演したり、その形式内容は六十年代に勃興したアングラ演劇とそう変わることはなかったけれども、アンダーグラウンドを「アングラ」とショートカットした間抜けな「音」のカッコ悪さには我慢がならなかった。それからアングラ演劇の劇中で流れる「演歌」や「歌謡曲」のダサさったら。特に鈴木忠志系列の劇団には辟易した。
■ある日ふいに、「パンクだ!」と思った。それまで僕はクラフトワークやグレイトフル・デッドやピンクフロイドやゴブリンやT・レックスを聴く二〇世紀少年だったが、パンクとはまったく縁がなかった。《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》と同じくらい、僕には《パンク》がなんのことか判らなかった。
■黒いタンクトップに切り刻んだ黒革のミニスカートをはいた編み上げブーツの女の子を座員に紹介してもらい、これを聴けば今日から「パンク」になれるレコードを持ってきてくれと頼んだ。唇も黒く塗っていた黒ずくめの彼女が選んだのは、セックスピストルズ『勝手にしやがれ』、クラス『ペニゼンビー』、ストラングラーズ『ブラック・アンド・ホワイト』、そしてスージー・アンド・バンシーズ『ジョイン・ハンズ』だった。
■僕は静岡で行った野外劇で、四枚のレコードから選曲したパンクロックを使った。パトカーと制服警官とイヤホンを付けた私服警官に包囲された繁華街の公園に、パンクは大音量で流れた。二十歳前後の僕たちを支持したのは「アングラな演劇人」ではなく、後に新人類と笑われ、更に後にオウム真理教へと追い込まれてしまうようなローティーンの少年少女たちだった。
■僕は地方都市のハーメルンの笛吹だった。年若い子供たちを連れ、「アナーキック・バイオレンス・スペクタクル」なテント演劇を観に出かけた。開演前の客入れに流れていた曲に登校拒否少年が反応し、「うわあ、ポップグループだ」と興奮した声をあげた。僕は「ポップグループ」がバンド名だと知らなかった。「全然ポップじゃないのにポップグループって名前にするところがカッコいいんですよ」と少年が教えてくれた。引き籠もりだろうがオタクだろうが、彼らもまた《パンク》な人々だった。
■ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で出会うように、僕は「驪團」のテント劇場でマーク・スチュアートやダブ・シンジケートに出会った。聞いたことのなかった「音」は、やがて僕を《変容する演劇、越境する音楽》というスローガンに導き、それから三十年の間、僕は多くの「旅の仲間」が、苦しんだり血を流したり涙を流したり傷つけあったり向こう側の世界に行ってしまったりするのを目撃することになった。
■常に「越境」が僕たちのテーマだったけれど、「驪團」の旗揚げ公演のタイトルが『越境天使』だったことはずっと忘れていた。
■辞書引きの手間を惜しむような連中は、「驪團」に冠詞のようについていたキャッチフレーズの《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を劇団名の代用にした。
■もしいま《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を標榜する劇団がいたとしたら、僕はためらわずにそいつらを中二病認定する。でも八十年代初頭にはそれがパンクだった。破壊衝動二〇〇%の小僧どもには、《セックス、ドラッグ、ロックンロール》とか《アナーキー・イン・ザ・UK》のように響く「音」だったのだ。
「ところでアナーキック・バイオレンス・スペクタクルって、いったいどういう意味なんだ?」と誰かが言い、「アナーキーでバイオレンスなスペクタクルのことなんじゃねーの」と誰かが答え、僕たちはそれで「なるほど」と納得したのだった。そういう時代だった。
■三十年前、僕は「アングラ」の打倒という問題に直面していた。僕たちの劇団は演劇をテント劇場で上演したり地下室で上演したり路上で上演したりライブハウスで上演したり、その形式内容は六十年代に勃興したアングラ演劇とそう変わることはなかったけれども、アンダーグラウンドを「アングラ」とショートカットした間抜けな「音」のカッコ悪さには我慢がならなかった。それからアングラ演劇の劇中で流れる「演歌」や「歌謡曲」のダサさったら。特に鈴木忠志系列の劇団には辟易した。
■ある日ふいに、「パンクだ!」と思った。それまで僕はクラフトワークやグレイトフル・デッドやピンクフロイドやゴブリンやT・レックスを聴く二〇世紀少年だったが、パンクとはまったく縁がなかった。《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》と同じくらい、僕には《パンク》がなんのことか判らなかった。
■黒いタンクトップに切り刻んだ黒革のミニスカートをはいた編み上げブーツの女の子を座員に紹介してもらい、これを聴けば今日から「パンク」になれるレコードを持ってきてくれと頼んだ。唇も黒く塗っていた黒ずくめの彼女が選んだのは、セックスピストルズ『勝手にしやがれ』、クラス『ペニゼンビー』、ストラングラーズ『ブラック・アンド・ホワイト』、そしてスージー・アンド・バンシーズ『ジョイン・ハンズ』だった。
■僕は静岡で行った野外劇で、四枚のレコードから選曲したパンクロックを使った。パトカーと制服警官とイヤホンを付けた私服警官に包囲された繁華街の公園に、パンクは大音量で流れた。二十歳前後の僕たちを支持したのは「アングラな演劇人」ではなく、後に新人類と笑われ、更に後にオウム真理教へと追い込まれてしまうようなローティーンの少年少女たちだった。
■僕は地方都市のハーメルンの笛吹だった。年若い子供たちを連れ、「アナーキック・バイオレンス・スペクタクル」なテント演劇を観に出かけた。開演前の客入れに流れていた曲に登校拒否少年が反応し、「うわあ、ポップグループだ」と興奮した声をあげた。僕は「ポップグループ」がバンド名だと知らなかった。「全然ポップじゃないのにポップグループって名前にするところがカッコいいんですよ」と少年が教えてくれた。引き籠もりだろうがオタクだろうが、彼らもまた《パンク》な人々だった。
■ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で出会うように、僕は「驪團」のテント劇場でマーク・スチュアートやダブ・シンジケートに出会った。聞いたことのなかった「音」は、やがて僕を《変容する演劇、越境する音楽》というスローガンに導き、それから三十年の間、僕は多くの「旅の仲間」が、苦しんだり血を流したり涙を流したり傷つけあったり向こう側の世界に行ってしまったりするのを目撃することになった。
■常に「越境」が僕たちのテーマだったけれど、「驪團」の旗揚げ公演のタイトルが『越境天使』だったことはずっと忘れていた。
2023年10月24日
『竜爪山の天狗』
静岡市の竜爪山には天狗が出ると昔から言われてきた。
竜爪神社の巨大な御神木の先端にたち、そこから駿河湾に向かって宙を滑空する。
海岸まで飛んで行くのだが、浜に降りることはまずない。
決まって、高い絶壁のある崖の上に現れる。そこに松の木があれば更にいいようで、久能山山頂の物見の松は、天狗の休憩場所としてよく知られていた。残念ながら、物見の松はいまはもう存在せず、天狗の話も聞かれなくなった。
一説によれば、竜爪山の修験者たちのことを天狗と呼んだそうだ。
この修験者は特種な技能を持っていた。憑き物落としである。人に取り憑いた、狐や狸や鬼や悪霊を祓い落とすのである。近代以降の医学は、憑き物という状態は、人が狐狸妖怪の類にコントロールされるのではなく、ストレスや精神疾患からもたらされる「こころの病」だと解明した。だが精神医学が未開の時代、ヒステリー症状は禍をなすモノに取り憑かれたと考えられ、その治療は加持祈祷を行う修験者に託されたのである。
静岡市北部の村で狐憑きの老人が出た。四六時中奇声をあげ、意味不明なことをぶつぶつつぶやきながら村内を徘徊する。困り果てた家族は竜爪山の天狗、即ち修験者に頼った。早速村を訪れた修験者は、三日三晩、一睡もせず休息すらとらずに悪霊払いの呪文をとなえ続けた。その間、老人は笑い、叫び、庭の土の上を転げ回り、ところかまわず排泄をした。四日目の朝、修験者は全ての行をやめ、家族に向かって言った。
「残念だが、これはもうどうしようもない」
「治せないのですか、狐を落とせないのですか」と息子が食い下がった。
「落としてもムダなんだ。ご老人はもう死んでいる。ここにいるのは狐だ。人の姿はしているが、体の中にいるのは狐なんだ。ご老人は既にこの世にはいない」
修験者が立ち去り、息子は激怒した。「この狐め、よくもじいさまを殺したな」と怒りにまかせて老人を殴りつけた。家族も次々に老人を殴りつけた。薪を持って、石を持って、あるいは素手で老人を殴った。激しい暴行を受け、老人は死んだ。「じいさまの敵は討ったぞ」と、ぽつりと息子がつぶやいた。
この話を聞いた町の漢方医が事件のことを書き残し、自身の感想を加えている。
竜爪の天狗さまも罪なことをしたものだ、年を取るといろいろな不都合が起きてくる、わけのわからぬことを言い出したり、見えないものが見えたり、ものごとを忘れたり、甚だしきは己が誰なのかを忘れてしまう、殺された老人は狐ではないのになあ。
漢方医の日記を読んだ郷土史家は、こんな風に考察した。
狐憑きにされた老人が、いわゆる認知症にすぎなかったとしても、貧しい一家が要介護者を抱えてしまうのは、家族にはたいへんな負担であり、「姥棄て山」の風習にもみられるように、共同体から「厄介者」を排除しようという事例は珍しくないのである。おそらく老人を殺害した家族は老人が「狐憑き」ではないことを知っており、治療者である天狗も、老人が「狐憑き」ではないと知っている。つまり「狐憑き」は、家族の障害となっている老人を口減らしするためのやむにやまれぬ「方便」なのである。
不思議な話や奇怪な話の裏に、名もなき庶民の小さな歴史が埋もれている。
竜爪神社の巨大な御神木の先端にたち、そこから駿河湾に向かって宙を滑空する。
海岸まで飛んで行くのだが、浜に降りることはまずない。
決まって、高い絶壁のある崖の上に現れる。そこに松の木があれば更にいいようで、久能山山頂の物見の松は、天狗の休憩場所としてよく知られていた。残念ながら、物見の松はいまはもう存在せず、天狗の話も聞かれなくなった。
一説によれば、竜爪山の修験者たちのことを天狗と呼んだそうだ。
この修験者は特種な技能を持っていた。憑き物落としである。人に取り憑いた、狐や狸や鬼や悪霊を祓い落とすのである。近代以降の医学は、憑き物という状態は、人が狐狸妖怪の類にコントロールされるのではなく、ストレスや精神疾患からもたらされる「こころの病」だと解明した。だが精神医学が未開の時代、ヒステリー症状は禍をなすモノに取り憑かれたと考えられ、その治療は加持祈祷を行う修験者に託されたのである。
静岡市北部の村で狐憑きの老人が出た。四六時中奇声をあげ、意味不明なことをぶつぶつつぶやきながら村内を徘徊する。困り果てた家族は竜爪山の天狗、即ち修験者に頼った。早速村を訪れた修験者は、三日三晩、一睡もせず休息すらとらずに悪霊払いの呪文をとなえ続けた。その間、老人は笑い、叫び、庭の土の上を転げ回り、ところかまわず排泄をした。四日目の朝、修験者は全ての行をやめ、家族に向かって言った。
「残念だが、これはもうどうしようもない」
「治せないのですか、狐を落とせないのですか」と息子が食い下がった。
「落としてもムダなんだ。ご老人はもう死んでいる。ここにいるのは狐だ。人の姿はしているが、体の中にいるのは狐なんだ。ご老人は既にこの世にはいない」
修験者が立ち去り、息子は激怒した。「この狐め、よくもじいさまを殺したな」と怒りにまかせて老人を殴りつけた。家族も次々に老人を殴りつけた。薪を持って、石を持って、あるいは素手で老人を殴った。激しい暴行を受け、老人は死んだ。「じいさまの敵は討ったぞ」と、ぽつりと息子がつぶやいた。
この話を聞いた町の漢方医が事件のことを書き残し、自身の感想を加えている。
竜爪の天狗さまも罪なことをしたものだ、年を取るといろいろな不都合が起きてくる、わけのわからぬことを言い出したり、見えないものが見えたり、ものごとを忘れたり、甚だしきは己が誰なのかを忘れてしまう、殺された老人は狐ではないのになあ。
漢方医の日記を読んだ郷土史家は、こんな風に考察した。
狐憑きにされた老人が、いわゆる認知症にすぎなかったとしても、貧しい一家が要介護者を抱えてしまうのは、家族にはたいへんな負担であり、「姥棄て山」の風習にもみられるように、共同体から「厄介者」を排除しようという事例は珍しくないのである。おそらく老人を殺害した家族は老人が「狐憑き」ではないことを知っており、治療者である天狗も、老人が「狐憑き」ではないと知っている。つまり「狐憑き」は、家族の障害となっている老人を口減らしするためのやむにやまれぬ「方便」なのである。
不思議な話や奇怪な話の裏に、名もなき庶民の小さな歴史が埋もれている。
2023年10月23日
『食人鬼(じきにんき)』
小泉八雲原作
山道で狼と鉢合わせして、それから追い剥ぎに出くわしちまったって話は前にしたよな。
実はこれにはまだ続きがあるんだ。
聞きたいってんなら話してやらんでもねえ、聞きたくねえなら勝手に喋る。
三日かかるはずの用件が一日で済んだんで暇が出来ちまった。だったら帰りは別の道を行こうと思い立ってな、巡礼気分で出たはいいが、暇な時の思いつきってのは碌なモンじゃねえな、案の定、山の中で道に迷った。道を見失った訳じゃあねえんだが、一向に人里にたどり着けねえ。日暮れにようやく一軒の庵室を見つけた。
庵室ってのはな、独り身の坊さんが使う小屋だ。
しょぼくれた爺さんがいたよ、もちろん坊主だ。
頼もう、とかなんとか言ったかもしれねえな、宿を借りるのは断られたが、もうしばらく先へ行けば村があると教えてくれた。
どうにかこうにか陽のあかりが残っているうちに村にたどり着き、村長の屋敷に泊めてもらうことが出来た。
よほど疲れていたのか、俺は飯を喰う気力もなく、すぐに床についた。
真夜中の少し前、隣の広間がなにやら騒がしいんで目が覚めた。女衆の泣き声も聞こえてくる。
こいつはただ事じゃねえなと様子をうかがっていたら、襖の向こうから村長の息子が声をかけてきた。
ああ、起きているよ、かまわねえ、入ってくれ。どうしたんだい、随分騒々しいが。
ええ? 村長が亡くなった? つい先ほど? そうか、そいつはお気の毒だ、お弔いの支度をしているのかい。そうじゃねえ? はあ? いまから村人全員で隣の村に行く? こんな夜分にかい?
おかしな決まり事もあったもんだ。その村では、どこかの家で死人が出たら、日が変わるまで夜の間は誰ひとりとして村の中にとどまってはならない。そんなしきたりは聞いたことがねえ。村長の息子は手短に話してくれた。
私たちは亡骸をそのままにして立ち去るが、遺体がこのように残された家の中では決まって不思議なことが起こる。だからあなたも一緒にここを離れた方がよいが、あなたは村の者ではないから、たぶん妖怪や悪霊の祟りはないだろう。もし一人だけで残るのが恐ろしくなければ、この家は好きに使ってくれてかまわない。
俺は屋敷に残ることにした。昼間散々山の中を歩き続けたんで、これからまた隣り村まで行くのは願い下げだったが、実の所は死人のいる家で起きる不思議なことってのが気になったんだ。
村の衆が立ち去ると、俺は仏さんの部屋に入った。燭台が何本も立ててあって、部屋の中は明るかった。きれいな死に顔だったよ、病を患っていた様子はねえし、苦しんで三途の川を渡ったようにもみえねえ。こんな風に終われるんだったら俺のところもいつでも来てくれと、妙な考えを起こした途端、突然金縛りにあっちまった。手も足も体も首も、まったく動かせねえ。それと同時に、音もなくなにか大きな黒い影が部屋の中に入ってきた。締め切った襖を通り抜けるようにそいつは現れたんだ。影から二本の腕のようなものが伸びてきた、その上に頭の形が出てきた、ちょうど口にあたるあたりにぽっかり丸い穴が開いている。影は両手を使うように死体を持ち上げると、いきなり喰いはじめた。頭から始まり全身を、髪の毛も骨も、仏さんが身にまとっていた経帷子まで喰らい尽くすと、現れた時と同じようにふいに消えてしまった。俺は金縛りにあったまま、意識を失った。
翌朝、村人たちが帰って来た。村長の遺体がなくなっていることに驚く者は誰も居なかった。村長の息子は、《死者の亡骸が消えてしまうのはいつものことです、あなたはその原因をご覧になったのでは》と聞く。
それで俺は昨夜見た一部始終を村の皆に話してやったんだが、これもまた驚く者はいなかった。村長の息子はこう言った、《いまのお話し、この怪異について古い時代から伝えられて来た事と一致します》。
どういう因縁があるのかは知らねえが、まあ、俺もこの通り無事だったし、お前さんたちがそれでかまわないならどうこう言うつもりもねえが、死人は成仏出来ているのかなあ、あの丘の上の庵室に一人で住んでいる坊さん、あいつは死者の弔いをしてはくれないのか?
村人たちにはじめて驚きの動揺が拡がった。
《丘の上に僧侶は居りません、庵室もございません。何世代もの間、この辺りには如何なる住職も居りません》
俺は昨日下ってきた道を引き返して確かめに行った。丘の上の庵室はすぐに見つかった。
年老いた坊さんもいた。
坊主は俺の顔を見るやいなや、土下座をして「何とも恥ずかしい」と叫びだした。
昨夜、村の屋敷で死体をむさぼり食ったのは私である、私は食人鬼だ、このようなあさましい有様になった過ちを聞いてほしい、と言う。
坊さんの名は貞山。
遥か遠い昔、貞山はこのあたりでただ一人の僧侶だった。多くの死者を弔い、多くの法要を行い、多くの報酬を受け取っていた。徳の高い仕事で儲けるのは当然と割り切り、食べる物と着る物のことばかりを考えていた。この身勝手な不信心の因果が報い、貞山は死ぬとすぐ食人鬼に生まれ変わってしまった。それからというもの、この近辺で死ぬ人たちの死体を食っていかなければならなくなった。
《どうか私のために施餓鬼供養を執り行なって欲しい、そうすれば、すぐにこのおぞましき有様から開放される》
そう言い終えたとたん、貞山の姿は消え去り、住まいの庵室も同じように瞬時に消えちまった。気がつくと俺は高い草の繁る中にひとり立っていた。傍らには古い苔むした五輪石と呼ばれる墓石があった。俺にはそれが、貞山和尚の墓のように見えた。
山道で狼と鉢合わせして、それから追い剥ぎに出くわしちまったって話は前にしたよな。
実はこれにはまだ続きがあるんだ。
聞きたいってんなら話してやらんでもねえ、聞きたくねえなら勝手に喋る。
三日かかるはずの用件が一日で済んだんで暇が出来ちまった。だったら帰りは別の道を行こうと思い立ってな、巡礼気分で出たはいいが、暇な時の思いつきってのは碌なモンじゃねえな、案の定、山の中で道に迷った。道を見失った訳じゃあねえんだが、一向に人里にたどり着けねえ。日暮れにようやく一軒の庵室を見つけた。
庵室ってのはな、独り身の坊さんが使う小屋だ。
しょぼくれた爺さんがいたよ、もちろん坊主だ。
頼もう、とかなんとか言ったかもしれねえな、宿を借りるのは断られたが、もうしばらく先へ行けば村があると教えてくれた。
どうにかこうにか陽のあかりが残っているうちに村にたどり着き、村長の屋敷に泊めてもらうことが出来た。
よほど疲れていたのか、俺は飯を喰う気力もなく、すぐに床についた。
真夜中の少し前、隣の広間がなにやら騒がしいんで目が覚めた。女衆の泣き声も聞こえてくる。
こいつはただ事じゃねえなと様子をうかがっていたら、襖の向こうから村長の息子が声をかけてきた。
ああ、起きているよ、かまわねえ、入ってくれ。どうしたんだい、随分騒々しいが。
ええ? 村長が亡くなった? つい先ほど? そうか、そいつはお気の毒だ、お弔いの支度をしているのかい。そうじゃねえ? はあ? いまから村人全員で隣の村に行く? こんな夜分にかい?
おかしな決まり事もあったもんだ。その村では、どこかの家で死人が出たら、日が変わるまで夜の間は誰ひとりとして村の中にとどまってはならない。そんなしきたりは聞いたことがねえ。村長の息子は手短に話してくれた。
私たちは亡骸をそのままにして立ち去るが、遺体がこのように残された家の中では決まって不思議なことが起こる。だからあなたも一緒にここを離れた方がよいが、あなたは村の者ではないから、たぶん妖怪や悪霊の祟りはないだろう。もし一人だけで残るのが恐ろしくなければ、この家は好きに使ってくれてかまわない。
俺は屋敷に残ることにした。昼間散々山の中を歩き続けたんで、これからまた隣り村まで行くのは願い下げだったが、実の所は死人のいる家で起きる不思議なことってのが気になったんだ。
村の衆が立ち去ると、俺は仏さんの部屋に入った。燭台が何本も立ててあって、部屋の中は明るかった。きれいな死に顔だったよ、病を患っていた様子はねえし、苦しんで三途の川を渡ったようにもみえねえ。こんな風に終われるんだったら俺のところもいつでも来てくれと、妙な考えを起こした途端、突然金縛りにあっちまった。手も足も体も首も、まったく動かせねえ。それと同時に、音もなくなにか大きな黒い影が部屋の中に入ってきた。締め切った襖を通り抜けるようにそいつは現れたんだ。影から二本の腕のようなものが伸びてきた、その上に頭の形が出てきた、ちょうど口にあたるあたりにぽっかり丸い穴が開いている。影は両手を使うように死体を持ち上げると、いきなり喰いはじめた。頭から始まり全身を、髪の毛も骨も、仏さんが身にまとっていた経帷子まで喰らい尽くすと、現れた時と同じようにふいに消えてしまった。俺は金縛りにあったまま、意識を失った。
翌朝、村人たちが帰って来た。村長の遺体がなくなっていることに驚く者は誰も居なかった。村長の息子は、《死者の亡骸が消えてしまうのはいつものことです、あなたはその原因をご覧になったのでは》と聞く。
それで俺は昨夜見た一部始終を村の皆に話してやったんだが、これもまた驚く者はいなかった。村長の息子はこう言った、《いまのお話し、この怪異について古い時代から伝えられて来た事と一致します》。
どういう因縁があるのかは知らねえが、まあ、俺もこの通り無事だったし、お前さんたちがそれでかまわないならどうこう言うつもりもねえが、死人は成仏出来ているのかなあ、あの丘の上の庵室に一人で住んでいる坊さん、あいつは死者の弔いをしてはくれないのか?
村人たちにはじめて驚きの動揺が拡がった。
《丘の上に僧侶は居りません、庵室もございません。何世代もの間、この辺りには如何なる住職も居りません》
俺は昨日下ってきた道を引き返して確かめに行った。丘の上の庵室はすぐに見つかった。
年老いた坊さんもいた。
坊主は俺の顔を見るやいなや、土下座をして「何とも恥ずかしい」と叫びだした。
昨夜、村の屋敷で死体をむさぼり食ったのは私である、私は食人鬼だ、このようなあさましい有様になった過ちを聞いてほしい、と言う。
坊さんの名は貞山。
遥か遠い昔、貞山はこのあたりでただ一人の僧侶だった。多くの死者を弔い、多くの法要を行い、多くの報酬を受け取っていた。徳の高い仕事で儲けるのは当然と割り切り、食べる物と着る物のことばかりを考えていた。この身勝手な不信心の因果が報い、貞山は死ぬとすぐ食人鬼に生まれ変わってしまった。それからというもの、この近辺で死ぬ人たちの死体を食っていかなければならなくなった。
《どうか私のために施餓鬼供養を執り行なって欲しい、そうすれば、すぐにこのおぞましき有様から開放される》
そう言い終えたとたん、貞山の姿は消え去り、住まいの庵室も同じように瞬時に消えちまった。気がつくと俺は高い草の繁る中にひとり立っていた。傍らには古い苔むした五輪石と呼ばれる墓石があった。俺にはそれが、貞山和尚の墓のように見えた。
2023年10月22日
『宇津ノ谷の十団子』
東海道は静岡市の安倍川を西へ渡ると、丸子、岡部、藤枝宿とつづく。丸子から岡部の間には宇津ノ谷峠がある。峠越えする山道は、古くから蔦の細道と呼ばれ、万葉の和歌にも詠われた名所だった。
江戸時代の中頃まで、岡部に尊龍寺という寺があった。住職の貞山和尚はまだ三十代の若さであった。地元の人ではなく、もとは歌舞伎役者だったと噂されていたが実際どうだったのかは判らない。和尚は祐念という幼い小坊主と一緒に寺で暮らしていた。祐念は生まれて間もないところを宇津ノ谷に捨てられ、それを見つけた村人が寺に預けたのだった。
ある年の夏、貞山和尚が流行病にかかった。身体のあちこちで血の流れが止まり、そこに血液が溜まってしまう悪質な病である。放置すれば患部は化膿し、やがて壊死する。溜まった悪い血を瀉血するのが有効な対処療法だったが、まだ医療が未開な時代には、肌を刃物で切開し、口で血を吸い出すくらいしか治療法はなかった。
血が溜まる部位が手足であれば、和尚が自分で対応することは出来る。だが、背中や頭部や、口が届かない場所に血だまりが出来れば、その血は誰か他人に吸い出してもらわなければならず、それが小坊主の祐念の役割だった。
治療には半年近くかかったが、ともあれ、貞山和尚の病は癒えた。
冬が来ていた。その頃から宇津ノ谷の峠に鬼が出るようになった。日が暮れてから峠越えをする旅人を襲っては喰らう。はじめは狼か山犬の仕業だと思われていたが、何人もの目撃者があらわれて、鬼の出没が確認された。この話は貞山和尚の耳にも届き、和尚はたいへん困惑した。というのもしばらく前から、小坊主の祐念が、真夜中になるとふらふらと外へ出て行く、いわゆる夢遊病のようなものになっていたのである。原因はかいもく見当が付かない。眠りながら裸足で外出し、明け方、足を泥だらけにして帰ってくる。本人にはその時の記憶はまったくなく、夜中に出歩いた翌日などは、病んでいるというよりも、むしろ元気になっているようだ。特に害がないようであればしばらく様子をみるのだが、鬼が出るとなれば話は別である。
その夜、貞山和尚は床についても寝ずに真夜中を待った。枕元の蝋燭の明かりがふいに消えた。家の中に風が入ったのである。木戸を開けるような音は何もしなかったが、祐念が出ていったのだと和尚は気づき、蒲団から抜け出した。
月夜であった。冬の月明かりは明るかった。祐念の小さな影が、とぼとぼと宇津ノ谷の峠道につづく坂を登って行く。
貞山和尚は寺に伝わる鉄の錫杖をつかんで、祐念の跡を追った。もしもの場合のため、鬼に襲われた場合に備えて、なんの役にも立たぬかもしれないが、霊力が備わると言われる錫杖である、なにもないよりはましだと思った。
祐念がふらふらと揺れながら歩く。間を置いて、足音をたてぬように和尚が歩く。祐念がどこへ行き、何をしているのか、今夜こそそれをつきとめる心づもりだった。
峠の中程まで来た時、厚い雲が月を隠した。あたりは黒暗になった。なにも見えない。ざあっと風が吹き、周囲の木々の枯れ葉が散った。雲が流れ、月明かりが戻ってくると、貞山和尚の目の前に鬼がいた。和尚を遥かにしのぐ身の丈、裸の身体が剛毛に覆われ、手足の爪は獣のように鋭い、開いた口から牙がはみだし、瞳のない眼は白かった。和尚は恐怖にすくんだ、全身の筋肉に今すぐ逃げろと危険信号が送られた。しかしそれは一瞬だった。鬼の顔の額にある、冬の星座のような三つ並んだホクロに気づいた和尚は、たちまち冷静になった。三つ並んだホクロは、小坊主の祐念の額にあるホクロと同じものだったのである。
お前を喰う、と鬼は言った。貞山和尚は理解した、自分が悪かったのだ、自分が患った病の治療を祐念に手伝わせ、毎日のように悪い血を祐念に吸わせたために、祐念は血の味をおぼえてしまった、人の道を外れてしまい、祐念は鬼になった、あのように浅ましい存在になってしまった、そうさせたのは他でもない、自分なのだ。
祐念、と和尚は声をかけたが、鬼はそれには答えず、もう一度、お前を喰う、と言って、一歩和尚に近づいた。
わかった、儂を喰うのはかまわない、だがその前に、ひとつ頼みがある、と和尚は言った。
何だ、と鬼が呻った。「お前たち鬼は、どんなものにも姿を変えることが出来るそうだが、それは本当なのか」「本当だ」「では天竺の象という生き物になってくれんか」「たやすいことだ」。チリンと鈴が鳴るような音がして、目の前に巨大な象がいた。「さあ、お前を喰う」と象が吠えた。「ほうたいしたものだ、だが獣になれても草木にはなれまい」「たやすい」。チリンと鈴が鳴るような音がして、目の前に銀杏の大樹が立った。「これで終わりだ、お前を喰う」と銀杏の樹がざわめいた。「ほうますますたいしたものだ、だが大きなものにはなれても、小さなものにはなれまい、儂の手のひらにのる水晶の玉になってくれんか、お前の術が優れていても命のない石にはなれぬだろう、なれたら儂を喰らうがよい」。「次はないぞ」と悲鳴のような声がして、貞山和尚の左の手のひらにこぶし大の丸い水晶があらわれた。
「すまなかった祐念、成仏しろ」と和尚はこころで唱え、鉄の錫杖を水晶玉に振り下ろした。鬼が変化した水晶は、落雷のような音とともに砕け散った。石のかけらは全部で十個あった。不思議な事に破片は真珠のように丸かった。貞山和尚は飛び散った十個の玉を拾い集め、それを繋いで数珠を作った。
以来、岡部では、小さな十個の餅を糸で繋いだ「十団子」が魔除け・厄除けの名物となった。今でも岡部の「慶龍寺」では、毎年八月二十四日の縁日に、この「十団子」が境内で売られている。
貞山和尚が住職をつとめた尊龍寺と、「十団子」の慶龍寺が同じ寺なのかは判らない。一説によれば和尚は再び同じ病にかかり、非常に苦しんだが決して治療しようとはせず、避けようのない運命なのだと自ら食を断ち、即身成仏の境地に至ったと伝わる。
江戸時代の中頃まで、岡部に尊龍寺という寺があった。住職の貞山和尚はまだ三十代の若さであった。地元の人ではなく、もとは歌舞伎役者だったと噂されていたが実際どうだったのかは判らない。和尚は祐念という幼い小坊主と一緒に寺で暮らしていた。祐念は生まれて間もないところを宇津ノ谷に捨てられ、それを見つけた村人が寺に預けたのだった。
ある年の夏、貞山和尚が流行病にかかった。身体のあちこちで血の流れが止まり、そこに血液が溜まってしまう悪質な病である。放置すれば患部は化膿し、やがて壊死する。溜まった悪い血を瀉血するのが有効な対処療法だったが、まだ医療が未開な時代には、肌を刃物で切開し、口で血を吸い出すくらいしか治療法はなかった。
血が溜まる部位が手足であれば、和尚が自分で対応することは出来る。だが、背中や頭部や、口が届かない場所に血だまりが出来れば、その血は誰か他人に吸い出してもらわなければならず、それが小坊主の祐念の役割だった。
治療には半年近くかかったが、ともあれ、貞山和尚の病は癒えた。
冬が来ていた。その頃から宇津ノ谷の峠に鬼が出るようになった。日が暮れてから峠越えをする旅人を襲っては喰らう。はじめは狼か山犬の仕業だと思われていたが、何人もの目撃者があらわれて、鬼の出没が確認された。この話は貞山和尚の耳にも届き、和尚はたいへん困惑した。というのもしばらく前から、小坊主の祐念が、真夜中になるとふらふらと外へ出て行く、いわゆる夢遊病のようなものになっていたのである。原因はかいもく見当が付かない。眠りながら裸足で外出し、明け方、足を泥だらけにして帰ってくる。本人にはその時の記憶はまったくなく、夜中に出歩いた翌日などは、病んでいるというよりも、むしろ元気になっているようだ。特に害がないようであればしばらく様子をみるのだが、鬼が出るとなれば話は別である。
その夜、貞山和尚は床についても寝ずに真夜中を待った。枕元の蝋燭の明かりがふいに消えた。家の中に風が入ったのである。木戸を開けるような音は何もしなかったが、祐念が出ていったのだと和尚は気づき、蒲団から抜け出した。
月夜であった。冬の月明かりは明るかった。祐念の小さな影が、とぼとぼと宇津ノ谷の峠道につづく坂を登って行く。
貞山和尚は寺に伝わる鉄の錫杖をつかんで、祐念の跡を追った。もしもの場合のため、鬼に襲われた場合に備えて、なんの役にも立たぬかもしれないが、霊力が備わると言われる錫杖である、なにもないよりはましだと思った。
祐念がふらふらと揺れながら歩く。間を置いて、足音をたてぬように和尚が歩く。祐念がどこへ行き、何をしているのか、今夜こそそれをつきとめる心づもりだった。
峠の中程まで来た時、厚い雲が月を隠した。あたりは黒暗になった。なにも見えない。ざあっと風が吹き、周囲の木々の枯れ葉が散った。雲が流れ、月明かりが戻ってくると、貞山和尚の目の前に鬼がいた。和尚を遥かにしのぐ身の丈、裸の身体が剛毛に覆われ、手足の爪は獣のように鋭い、開いた口から牙がはみだし、瞳のない眼は白かった。和尚は恐怖にすくんだ、全身の筋肉に今すぐ逃げろと危険信号が送られた。しかしそれは一瞬だった。鬼の顔の額にある、冬の星座のような三つ並んだホクロに気づいた和尚は、たちまち冷静になった。三つ並んだホクロは、小坊主の祐念の額にあるホクロと同じものだったのである。
お前を喰う、と鬼は言った。貞山和尚は理解した、自分が悪かったのだ、自分が患った病の治療を祐念に手伝わせ、毎日のように悪い血を祐念に吸わせたために、祐念は血の味をおぼえてしまった、人の道を外れてしまい、祐念は鬼になった、あのように浅ましい存在になってしまった、そうさせたのは他でもない、自分なのだ。
祐念、と和尚は声をかけたが、鬼はそれには答えず、もう一度、お前を喰う、と言って、一歩和尚に近づいた。
わかった、儂を喰うのはかまわない、だがその前に、ひとつ頼みがある、と和尚は言った。
何だ、と鬼が呻った。「お前たち鬼は、どんなものにも姿を変えることが出来るそうだが、それは本当なのか」「本当だ」「では天竺の象という生き物になってくれんか」「たやすいことだ」。チリンと鈴が鳴るような音がして、目の前に巨大な象がいた。「さあ、お前を喰う」と象が吠えた。「ほうたいしたものだ、だが獣になれても草木にはなれまい」「たやすい」。チリンと鈴が鳴るような音がして、目の前に銀杏の大樹が立った。「これで終わりだ、お前を喰う」と銀杏の樹がざわめいた。「ほうますますたいしたものだ、だが大きなものにはなれても、小さなものにはなれまい、儂の手のひらにのる水晶の玉になってくれんか、お前の術が優れていても命のない石にはなれぬだろう、なれたら儂を喰らうがよい」。「次はないぞ」と悲鳴のような声がして、貞山和尚の左の手のひらにこぶし大の丸い水晶があらわれた。
「すまなかった祐念、成仏しろ」と和尚はこころで唱え、鉄の錫杖を水晶玉に振り下ろした。鬼が変化した水晶は、落雷のような音とともに砕け散った。石のかけらは全部で十個あった。不思議な事に破片は真珠のように丸かった。貞山和尚は飛び散った十個の玉を拾い集め、それを繋いで数珠を作った。
以来、岡部では、小さな十個の餅を糸で繋いだ「十団子」が魔除け・厄除けの名物となった。今でも岡部の「慶龍寺」では、毎年八月二十四日の縁日に、この「十団子」が境内で売られている。
貞山和尚が住職をつとめた尊龍寺と、「十団子」の慶龍寺が同じ寺なのかは判らない。一説によれば和尚は再び同じ病にかかり、非常に苦しんだが決して治療しようとはせず、避けようのない運命なのだと自ら食を断ち、即身成仏の境地に至ったと伝わる。