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蒲菖亭(あべの古書店主人)
蒲菖亭(あべの古書店主人)

2016年06月18日

静岡大空襲

明日、6月19日は「静岡大空襲」の日。アメリカの爆撃で多くの静岡市民が殺された。
アメリカは最大幸福の実現のために日本に原爆を投下した。
百人の命が救えるのなら一人の犠牲を是とする功利主義。
死んだ静岡市民が、いったい何人の幸福に貢献したのか。
昔書いた原稿を(再度)ここに転載します。4000字くらいの文章です。

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記憶したこと、記録されなかったこと 第十五回

「おかあさん、少し休みませんか」
 二度目に声をかけると、ようやく郁代は手を止め、蒼ざめた顔で朋子を見た。
「お鮨です。白身のだけ、もらってきました。お茶は、今すぐ持ってきます」
「お茶はもう沢山だよ。水でいいから、薬罐に入れてきて」
「はい」
 階段を駆け降りて、誰にも見つからないように急いで三階へ戻ってくると、郁代はもう大方の鮨は平らげてしまっていた。
「これ、すし国のかい」
「いいえ」
「道理でね、まずかったわ」
 黙って水を茶碗に注ぎ入れながら、朋子は悲しくなった。

 有吉佐和子の『香華』の一シーンである。主人公の朋子は静岡の二丁町遊廓を訪れ、母と会った。鮨の出前をとり、それが「すし国」の鮨ではないから美味しくないと母親は文句を言っているのである。 「すし国」は、実際に二丁町遊廓街にあった鮨屋で、廓の行き帰りに立ち寄る客や常連もいないではなかったが、もっぱら妓楼への出前が主体の商売をしていた。

 昭和二十年六月十九日の深夜から二十日未明にかけ、米軍は静岡市への大空襲を敢行した。大型爆撃機から大量の焼夷弾が投下され、二丁町遊廓も静岡市街も灰燼に帰した。「すし国」も全焼して、移転を余儀なくされた。惨憺たる焼け跡から救い出されたのは、わずかに大型の絵皿が二枚だけだったが、「すし国」は廃業することなく、静岡浅間神社門前の馬場町に店を構えた。廓への出前に使われていた豪奢な絵皿が残る「寿し國」が、二丁町の「すし国」のその後である。

 昭和十年生まれの「寿し国」店主Mさんの記憶に残っている二丁町は、昭和十年代後半の姿、戦時下の二丁町の風景だ。Mさんには十五離れた姉がいた。姉は出前の鮨皿の回収をまかされていた。籐編みの乳母車に幼いMさんをのせ、一軒一軒遊廓をまわっては空いた皿を引き取った。皿は子供では抱えきれぬような大皿もあった。「すし国」では乳母車は子守りのためのものではなく、皿を安全に運ぶ道具だった。

 Mさんはある一人の娼妓のことを憶えている。仮に「雪乃」という名前にしよう。子供好きな雪乃は、遊びに来る子供たちによく菓子を与えていた。もちろん子供が廓へ遊びに来るわけではない。雪乃のいた妓楼は、玄関を入ったエントランスホールの中央に大きな噴水があり、ぐるりの壁面と天井が、漆喰細工の動物や植物のレリーフで埋め尽くされていた。子供たちは、――大人たちもそうだったが――、このホールを「動物園」と呼び称し、登楼客のいない昼下がりに眺めにくるのだった。そんな子供たちに雪乃は飴や煎餅を必ず持たせてやるのだった。

「あたしらが皿を取りに行くと雪乃さんが出て来ましてね、セロハンで包んである甘露飴をくれるんですよ。いま思うと不思議ですね、よく戦争中にああいうお菓子がありましたよ」

 懐かしそうに話すMさんに、私は静岡大空襲の夜のことを訊ねてみた。

「わたしらは二丁町をみた最後の人間ですよ。十一時頃だったのかな、寝ているところをたたき起こされました。駒形四丁目あたりから最初に火の手があがったんです。とにかく逃げろっていうんでね、日頃から言いつけられていた通り、着の身着のまま防空頭巾をかぶって店を飛び出したんですよ。空襲警報は鳴っていなかったような気がするなあ、憶えていません。避難場所が駒形小学校でしたから、とにかくそこまで逃げて、家族全員無事に集まったんですが、火事が激しくなると、そこも熱くていられなくなって、安倍川の河原へ逃げましたね。あの空襲では大勢死んだそうですが、わたしが実際に死んでいるのを見たのは二人です。真っ黒に焼けていて、腹が膨れ上がって、ヘソが飛び出していましたよ。もう一人は田圃の中でうつぶせに死んでいました。赤ん坊を抱きかかえた女の人です。その人は背中がもう焼けちゃっているんですが、子供は生きていましたよ、わぁわぁ泣いていましたからね。どこの人だったかは判りません、子供だけでも助かったと思いたいです」
「雪乃さんはどうなったのでしょう、無事だったでしょうか?」と私は聞いた。
「さあ、どうしたでしょうね。二丁町は昭和十八年に閉鎖されているんです、空襲にあった頃はもうどこも営業していませんでした。だから雪乃さんもいるはずがない」

 私は漠然と雪乃の消息を問うたわけではない。実は私の記憶の中には、Mさんが語った雪乃の逸話と奇跡のように接続するひとつのエピソードが存在するのである。



記憶したこと、記録されなかったこと 第十六回

 静岡市の駒形町で空襲に罹災した昭和二十年六月十九日、私の父、勘助は十五歳だった。祖父、祖母、弟二人、妹二人、そして長兄すなわち私の父の七人家族だった。家は最初の焼夷弾が落ちた駒形四丁目にあった。空襲警報とほとんど同時に、いたるところで火の手があがり、町は燃えはじめた。一家はバラバラに逃げた。祖父は幼い次女を抱えた。祖母がまだ乳離れのしない三男を背負った。兄は二歳下の弟と七つ年下の長女と一緒に自力で逃げた。避難の手順は判っていた。まず西の安倍川河川敷まで逃げ、焼夷弾を落とす敵機が去ったら駒形小学校へ行き家族を捜す。

 町内の通りは避難する人々で大混乱していた。それでなくとも駒形界隈は狭い路地が入り組み、迷路のようになっている。人々は判りやすい避難路に集中する。辻では三方から逃げてきた避難者がつまってしまい、身動きがとれなくなるような状態だった。真夜中で、しかも既に周囲には白い煙がたちこめはじめ、視界は劣悪である。悲鳴と怒声が飛び交っていた。お前は一人で先に逃げろ、と兄は弟に言った。弟は黙ってうなずき、目の前の板塀を乗り越えて消えた。子供たちには子供たちだけの秘密の道がある。塀によじ登り、民家の庭を突っ切り、家々の境界の排水路を辿る。目的地への最短距離を子供たちは熟知している。だが八歳の妹には塀をよじ登ることは出来なかった。兄は妹を連れて、避難者の流れに加わった。

 あたりの混乱はますます激しくなる。勘助は防空頭巾の上から黒いねっとりとした液体をかぶった。田圃に落ちた爆裂弾が泥をはじいたのだと思った。周囲には田圃などないと気づいたとき、勘助は泥が発する匂いに凍りついた。勘助があびたのは、空中で炸裂した焼夷弾が撒き散らす油だったのである。運が良かった。油は火がつかずに降ってきたのだった。もしも爆弾製作者の意図どおりにその油が落下していれば―燃える油が―、勘助の命はなかった。勘助は急いで防空頭巾を投げ捨てると、着ていた長袖のシャツを脱ぎ、それで顔にかかった油を力まかせに拭いた。上半身はランニングシャツ一枚だけになった。まるで無防備になったが構うことはない。燃える油の直撃をうければ、服を着ていようが着ていまいがたいした差はない。たちまち死ぬか一息ついて死ぬかの違いだ。まず火の雨が降り注ぐ領域の外に出なければ。火傷の心配をするのはその後だ。油で汚れた両手を見て、はっとした。―俺は妹と手をつないでいたのだ。―妹の姿はなかった。

 勘助は大声で妹の名を呼んだ。返事はなかった。妹を捜しに戻ろうとする兄を、人波が押し流した。「坊、早く逃げろ」と勘助の腕をつかむ者があった。近所の漆職人だった。妹を見なかったか、と勘助は訊いた。漆職人は首を振った。いいから逃げろ、と言って職人は走り去った。

 逃げてきた駒形町界隈は激しく燃え上がっている。通りの北側にも南側にも炎が見える。まもなく西の方面にも火の手があがるだろう。そうなったらもう逃げられない、逃げ道が断たれる。人に構うな、家族でも構うな、自分の命を助けることだけ考えろ。毎日のように聞かされていた父親の言いつけを勘助は破った。煙につつまれ視界のきかなくなってきた道を引き返して歩き出した。

 その瞬間、一陣の風が巻き起こり、白煙の壁が割れた。紺の菖蒲浴衣を着た若い女が立っていた。横には泣いている妹がいた。女の手を握りしめている妹は、煙に咳き込み目をこすっていた。女が近づいてくると油の匂いが消え、白粉のよい香りがした。女の着物の菖蒲の柄を見て、今年は菖蒲湯を使わなかったな、と勘助は漠然と思った。女が妹の肩にそっとふれると、妹は兄の元へかけよった。「手を離したらいけないよ、女の子の手はとくにね」、と菖蒲浴衣の女が言った。美しい顔立ちに似合わぬ、低いかすれた声だった。煙を吸って喉を傷めたのだな、と勘助は思った。また突風が吹いた。今度は火の粉をふくんだ黒煙を運んできた。前髪がちりちりと焦げた。勘助は妹の手を取り、安倍川へ向かって走った。

 一夜明け、静岡の市街地は焼け野原となった。駒形小学校の校庭で、家族全員無事再会することが出来た。先に逃げた次男も、手足に軽い擦り傷をつくっていただけで元気だった。皆どのように逃げてきたのか、それぞれ消息を報告し、幸運を喜んだ。長女は兄とはぐれてしまった時の事だけは、両親に話さなかった。よほど怖ろしい思いをしたのだろうと、勘助もあえてその話題を出さなかった。勘助は避難してきた人々の中に、妹の命を救ってくれた菖蒲浴衣の女を捜した。一言礼が言いたかった。女を見つけられずに戻ってきた勘助に、妹は昨夜からずっと握りしめていた右手の拳をつきだした。おばちゃんにもらった、と妹が言った。開いた掌には、薄いセロハンに包まれた甘露飴が、二つのっていた。

 私は寿司國の主人の話と父の話を別々に聞いた。寿司國と父に交誼はないから、互いのこの逸話を彼らは知らない。記憶に共通しているのは「薄いセロハンに包まれた甘露飴」だけである。二丁町の雪乃と大空襲の夜に父が出会った女を結びつけて、もしや、と期待するのは私の想像力だ。二人が同一人物である可能性は九分九厘ない。そして私は、「手を離したらいけないよ、女の子の手はとくにね」と菖蒲浴衣の女が言ったのは、私の脚色である事を告白しておかねばならない。

 もし彼女たちが存命であれば、おそらく百歳前後になっているはずだ。彼女たちの記憶に、寿司國の主人や私の父や、町の子供たちは残っているだろうか。そう遠くない将来、私の記憶力は黄昏に溶け込み、事実と想像の境界線が取り払われる。老いた私はきっと、雪乃と菖蒲浴衣の女を同一人物として語るに違いない。

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Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 23:59 │日録古書
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