QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
蒲菖亭(あべの古書店主人)
蒲菖亭(あべの古書店主人)

2023年10月20日

二丁町からクルンテープへ (2)

 PCの中にも机の引き出しにも旅行鞄にもポケットの中にも、いたるところにメモ書きがある。文章や単語や電話番号や記号。それが有用であるからメモしたはずなのだが、いったい何のためにメモしたのかが思い出せない。これでは備忘の意味がない。

《ラカンは「英雄」を、自分の行為がもたらした結果を全面的に引き受ける者、すなわち自分の放った矢がぐるりと円を描いて彼自身をめがけて戻ってきたときに避けない者、と定義している。》

この文章も出典が思い出せない。たぶん「好奇心は身を滅ぼす」ということわざを、高級な言い回しで使おうと思ってメモしておいたのだろう。ラカンの言葉ではないというところに脱力する。せめて引用しても格好がつく人物の文章であることを願う。

 ホテルの裏に矩形の森があった。俺は十一階の部屋の窓から亜熱帯の植物を見おろしている。住宅地の一区画が濃い緑につつまれている。眼下の森は少し前までは誰かの邸だった。盛んに茂った梢のわずかな隙間に建物の屋根が認められる。住まう者がいなくなった屋敷はたちまち元の姿をとり戻した。ジャングルの形状を。後になって俺は、その小さな森を「アリアドーネの森」と名づけた。ギリシア神話の女神アリアドーネはクレタ王の娘である。クレタ島には怪物ミノタウロスがひそむ地下の大迷宮があった。そのミノタウロスを倒すために迷宮へ踏み込む勇者テセウスに、アリアドーネは糸玉を与えた。誰一人生還したことのない迷宮だったが、テセウスはこの糸をたどって無事に脱出することが出来たのである。

 森の中へ入って行きたいと俺は思う。あの森の中でナニカが俺を待ち受けている気がする。ナニカが俺を招いている。「好奇心は猫をも殺す」。のこのこ出かけていってもろくな事にはならない。ホラー映画の登場人物ならば、十中八九、森の中で死体になる。

 俺はデジタルカメラを持って階下へ降りた。西向きのホテルの正面は、片側三車線のラチャダピセーク通り。東側に森、南を水路が流れ、北に広い空き地があった。焼け野原のような空き地で子供たちがサッカーボールを蹴っている。焼け野原でなくてもかまわない。放射性物質に汚染された廃墟でも、都市開発計画が頓挫して放置されたままになっている公営住宅の跡地でも、大学の移転後に残された野球グラウンドでもいい。太陽が激しく照りつける石ころだらけの荒れ地で子供たちはサッカーをしている。炎天下、上半身裸になって、ばかばかしい暑さの中を走り回っている。よくもこの猛暑の中でボールを追って走れるものだ。タイ人は五〇mを歩くのさえ厭うと聞いたが、子供はそうでもないのか。いまに血液が沸騰してひっくり返るぞ、と思うのは俺だけだ。彼らは平気だ。マイペンライ。

 俺は森へ辿り着くために空き地を回り込む。自動車修理工場らしきガレージや、飲食店らしきガレージや、しもたやらしきガレージや、ただのガレージらしきガレージの前を通り過ぎて、俺は森の入り口に立つ。錆びた格子門が半開きになっている。玄関まで続いていると思われる舗装路はひび割れている。道は途中で森にのみこまれ、森のなかにあるはずの屋敷は暗い影の中に見通せない。森には東南アジアの毒蛇がいて、東南アジアの毒虫がいて、毒のある東南アジアの草と棘のある東南アジアの蔓が繁茂していて、それから幽霊と精霊がいる。

 俺が親しくしているタイ料理屋の夫婦は、蚊を極度に恐れている。タイ人の彼らは、蚊に刺されるとマラリヤに感染すると思っている。俺は日本にはマラリヤはないと何度も説明した。彼らは決してくびを縦に振らなかった。マイペンライではありません。

 森の背後に屹立するホテルが白く輝いていた。俺は自分の部屋の窓を探して、墓石のような、棺のような高層建築を見上げる。一一一〇号室はどこだ。窓辺に俺が立ち、森を見おろしている。ホテルのレストランでふとっちょの白人と朝食を食べていた少女も、俺と同じように森を見ただろう。ファランの部屋の窓から。あの少女はかつて森の精霊だった。森の一部だった。それをあのファランが森から連れ出して…、待てよ、奴はどこで少女と出会ったんだ?

 門扉は開いている。森へ一歩を踏み出せば俺は戻れない。この森で俺は迷う。ホラー映画の登場人物ならば、十中八九、森の中で死体になる。俺はバンコクへ来る機内で読んだ『高野聖』を思い出した。

《凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥り中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。
 なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早や不残立樹の根の方から朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、此処で取殺される因縁らしい》

(つづく)

同じカテゴリー(古書者蒙昧録)の記事
 二丁町からクルンテープへ (4) (2023-10-21 00:46)
 二丁町からクルンテープへ (3) (2023-10-21 00:42)
 二丁町からクルンテープへ (1)  (2023-10-20 04:30)
Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 23:51│Comments(0)古書者蒙昧録
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
二丁町からクルンテープへ (2)
    コメント(0)