2023年10月24日
水のように流れる(1)
■三十年前、「驪團」が登場した時、ごく普通の漢字力しか持たない者には、その劇団名を読むために漢字辞典が必要だった。「團」は「団」ではなく旧字の「團」で表記された。むやみに画数の多い文字をグループ名に使いたがる暴走族のセンスに似ていた。
■辞書引きの手間を惜しむような連中は、「驪團」に冠詞のようについていたキャッチフレーズの《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を劇団名の代用にした。
■もしいま《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を標榜する劇団がいたとしたら、僕はためらわずにそいつらを中二病認定する。でも八十年代初頭にはそれがパンクだった。破壊衝動二〇〇%の小僧どもには、《セックス、ドラッグ、ロックンロール》とか《アナーキー・イン・ザ・UK》のように響く「音」だったのだ。
「ところでアナーキック・バイオレンス・スペクタクルって、いったいどういう意味なんだ?」と誰かが言い、「アナーキーでバイオレンスなスペクタクルのことなんじゃねーの」と誰かが答え、僕たちはそれで「なるほど」と納得したのだった。そういう時代だった。
■三十年前、僕は「アングラ」の打倒という問題に直面していた。僕たちの劇団は演劇をテント劇場で上演したり地下室で上演したり路上で上演したりライブハウスで上演したり、その形式内容は六十年代に勃興したアングラ演劇とそう変わることはなかったけれども、アンダーグラウンドを「アングラ」とショートカットした間抜けな「音」のカッコ悪さには我慢がならなかった。それからアングラ演劇の劇中で流れる「演歌」や「歌謡曲」のダサさったら。特に鈴木忠志系列の劇団には辟易した。
■ある日ふいに、「パンクだ!」と思った。それまで僕はクラフトワークやグレイトフル・デッドやピンクフロイドやゴブリンやT・レックスを聴く二〇世紀少年だったが、パンクとはまったく縁がなかった。《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》と同じくらい、僕には《パンク》がなんのことか判らなかった。
■黒いタンクトップに切り刻んだ黒革のミニスカートをはいた編み上げブーツの女の子を座員に紹介してもらい、これを聴けば今日から「パンク」になれるレコードを持ってきてくれと頼んだ。唇も黒く塗っていた黒ずくめの彼女が選んだのは、セックスピストルズ『勝手にしやがれ』、クラス『ペニゼンビー』、ストラングラーズ『ブラック・アンド・ホワイト』、そしてスージー・アンド・バンシーズ『ジョイン・ハンズ』だった。
■僕は静岡で行った野外劇で、四枚のレコードから選曲したパンクロックを使った。パトカーと制服警官とイヤホンを付けた私服警官に包囲された繁華街の公園に、パンクは大音量で流れた。二十歳前後の僕たちを支持したのは「アングラな演劇人」ではなく、後に新人類と笑われ、更に後にオウム真理教へと追い込まれてしまうようなローティーンの少年少女たちだった。
■僕は地方都市のハーメルンの笛吹だった。年若い子供たちを連れ、「アナーキック・バイオレンス・スペクタクル」なテント演劇を観に出かけた。開演前の客入れに流れていた曲に登校拒否少年が反応し、「うわあ、ポップグループだ」と興奮した声をあげた。僕は「ポップグループ」がバンド名だと知らなかった。「全然ポップじゃないのにポップグループって名前にするところがカッコいいんですよ」と少年が教えてくれた。引き籠もりだろうがオタクだろうが、彼らもまた《パンク》な人々だった。
■ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で出会うように、僕は「驪團」のテント劇場でマーク・スチュアートやダブ・シンジケートに出会った。聞いたことのなかった「音」は、やがて僕を《変容する演劇、越境する音楽》というスローガンに導き、それから三十年の間、僕は多くの「旅の仲間」が、苦しんだり血を流したり涙を流したり傷つけあったり向こう側の世界に行ってしまったりするのを目撃することになった。
■常に「越境」が僕たちのテーマだったけれど、「驪團」の旗揚げ公演のタイトルが『越境天使』だったことはずっと忘れていた。
■辞書引きの手間を惜しむような連中は、「驪團」に冠詞のようについていたキャッチフレーズの《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を劇団名の代用にした。
■もしいま《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》を標榜する劇団がいたとしたら、僕はためらわずにそいつらを中二病認定する。でも八十年代初頭にはそれがパンクだった。破壊衝動二〇〇%の小僧どもには、《セックス、ドラッグ、ロックンロール》とか《アナーキー・イン・ザ・UK》のように響く「音」だったのだ。
「ところでアナーキック・バイオレンス・スペクタクルって、いったいどういう意味なんだ?」と誰かが言い、「アナーキーでバイオレンスなスペクタクルのことなんじゃねーの」と誰かが答え、僕たちはそれで「なるほど」と納得したのだった。そういう時代だった。
■三十年前、僕は「アングラ」の打倒という問題に直面していた。僕たちの劇団は演劇をテント劇場で上演したり地下室で上演したり路上で上演したりライブハウスで上演したり、その形式内容は六十年代に勃興したアングラ演劇とそう変わることはなかったけれども、アンダーグラウンドを「アングラ」とショートカットした間抜けな「音」のカッコ悪さには我慢がならなかった。それからアングラ演劇の劇中で流れる「演歌」や「歌謡曲」のダサさったら。特に鈴木忠志系列の劇団には辟易した。
■ある日ふいに、「パンクだ!」と思った。それまで僕はクラフトワークやグレイトフル・デッドやピンクフロイドやゴブリンやT・レックスを聴く二〇世紀少年だったが、パンクとはまったく縁がなかった。《アナーキック・バイオレンス・スペクタクル》と同じくらい、僕には《パンク》がなんのことか判らなかった。
■黒いタンクトップに切り刻んだ黒革のミニスカートをはいた編み上げブーツの女の子を座員に紹介してもらい、これを聴けば今日から「パンク」になれるレコードを持ってきてくれと頼んだ。唇も黒く塗っていた黒ずくめの彼女が選んだのは、セックスピストルズ『勝手にしやがれ』、クラス『ペニゼンビー』、ストラングラーズ『ブラック・アンド・ホワイト』、そしてスージー・アンド・バンシーズ『ジョイン・ハンズ』だった。
■僕は静岡で行った野外劇で、四枚のレコードから選曲したパンクロックを使った。パトカーと制服警官とイヤホンを付けた私服警官に包囲された繁華街の公園に、パンクは大音量で流れた。二十歳前後の僕たちを支持したのは「アングラな演劇人」ではなく、後に新人類と笑われ、更に後にオウム真理教へと追い込まれてしまうようなローティーンの少年少女たちだった。
■僕は地方都市のハーメルンの笛吹だった。年若い子供たちを連れ、「アナーキック・バイオレンス・スペクタクル」なテント演劇を観に出かけた。開演前の客入れに流れていた曲に登校拒否少年が反応し、「うわあ、ポップグループだ」と興奮した声をあげた。僕は「ポップグループ」がバンド名だと知らなかった。「全然ポップじゃないのにポップグループって名前にするところがカッコいいんですよ」と少年が教えてくれた。引き籠もりだろうがオタクだろうが、彼らもまた《パンク》な人々だった。
■ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で出会うように、僕は「驪團」のテント劇場でマーク・スチュアートやダブ・シンジケートに出会った。聞いたことのなかった「音」は、やがて僕を《変容する演劇、越境する音楽》というスローガンに導き、それから三十年の間、僕は多くの「旅の仲間」が、苦しんだり血を流したり涙を流したり傷つけあったり向こう側の世界に行ってしまったりするのを目撃することになった。
■常に「越境」が僕たちのテーマだったけれど、「驪團」の旗揚げ公演のタイトルが『越境天使』だったことはずっと忘れていた。