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蒲菖亭(あべの古書店主人)
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2023年10月19日

転生する次郎長映画

『転生する次郎長映画/鈴木大治』

■旅姿の清水次郎長一家の面々がずらりと並び、揃いの合羽が威勢良く投げ捨てられる。三度笠が宙を舞い、怒号と罵声の中、抜いた白刃が切り結ばれる。私の記憶から拾ってきた次郎長映画の一場面だ。タイトルも俳優も思い出せない。そもそもそんな映画を観たのかどうかさえもおぼつかない。けれどもイメージは実に鮮明なのである。

■清水次郎長を主人公にした映画は、一体いつ頃から製作されていたのか。一九二二年(大正十一年)、野村芳亭監督が、松竹で『清水次郎長』を撮っている。しかしこれが最初の次郎長映画なのかどうか、確かなことは判らない。日本人の手による映画作製は既に一八九〇年代に始まっているので、野村芳亭以前にも次郎長映画が作られていた可能性は充分にある。

■清水の「次郎長翁を知る会」が公開しているウェブサイトによれば、《映画だけでも200本近く》の次郎長ものが存在しているという。それだけの数の次郎長映画が製作公開されていれば、自分が生きた半世紀の内には、そのうちの何本かを目にする機会はあっただろうと、五十歳を少し越えている私は思った。

■デジタル機材は映画館から「フィルム」を概ね放逐した。巨大な映写スクリーンを持ち大人数の観客を収容する映画館は、多館を複合したシネコンへと移行し、往時の「映画館」そのものが町から姿を消しつつある。大映画館が解体される背景には、観客の減少よりも建物の耐震強度の問題がある。老朽化した映画館は予想される大震災時にたいへん危険だという理由だ。「危険」を指摘するなら、映画フィルムこそ危険物である。戦前の都市では町を焼き尽くすような大規模な火災は珍しいことではなく、火元は寺や映画館であることが多かった。寺には蝋燭がつきものだから、これは容易に火事を生じさせる。映画館が出火場所になるのは、観客がふかす煙草の火の不始末が原因なのではない。戦前の映画フィルムはニトロセルロースを使っていて、この素材は常温でも発火した。映写機が高温を発する上映中はもちろん、観客や映写技師や支配人が帰宅した無人の映画館の片隅で、映画フィルムは突然燃えはじめ、もしも強い風が吹いていれば町は灰燼に帰したのである。

■五十年代以降は可燃性の低い安全なフィルムが登場し、無期限の時限爆弾のような映画フィルムにとってかわるが、私が探し求める次郎長は、危険物のラベルが貼られた「フィルム」の中にいるのだと思いたい。

■二十世紀の半ば頃には静岡のどの学区にも映画館があったようだ。私が生まれ育った町内にも小さな映画館があった。旧作を上映する名画座ではなく、「白鳥座」という名前の封切館だった。

■日本映画の最盛期に遅れて生まれた私は、映画興行最良の時代を知らない。それでも子供の学期間の長期休暇に合わせて上映される怪獣映画はいつも大賑わいだった。登下校の通学路には市内の映画館街で上映中の映画を告知する掲示看板があった。時々、ピンク映画のポスターも貼られていて、子供たちがはしゃいだ。クレームをつけるPTAもいなかったのだから実に自由な気風の学区だった。

■毎日目にする映画ポスターの効果か、私は中学生になるといっぱしの映画少年になった。アメリカンニューシネマが世界の映画界を席巻していた時代だった。邦画はほとんど観なかったが、どんな作品が公開されているのか、知識だけはあった。学園闘争に明け暮れる学生たちが熱狂したと都市伝説に残る高倉健たちの任侠映画は、身も蓋もない暴力団抗争映画にスライドし、東宝はもっぱら山口百恵が主演する文芸映画に重きを置いていた。私の記憶からは「次郎長」は浮かんでこないのである。では次郎長映画はどこにあったのだろうか。

■一九六十年代の半ば、清水次郎長を主人公にした子母澤寛の『駿河遊侠伝』三部作を、大映が映画化した。きちんと原作の通り、映画も三本の連作として製作された。次郎長を演じたのは勝新太郎である。

■私はインターネットを経由してこの情報を入手したが、勝新の次郎長映画があったことはこれまで全く知らなかった。勝新太郎の代表作をあげるならば「座頭市」が衆目の一致するところである。勝新の座頭市――これまた子母澤寛原作――は、映画化から始まる。劇場版の座頭市は一九六二年に第一作目が作られ、七三年まで毎年のように新作が公開された。多い年には四本の座頭市シリーズが撮られている。その最多作の年が一九六四年で、翌六五年には三作を製作しているから、勝新太郎は頗る多忙の合間をぬって次郎長映画に出演していたのである。

■アウトローを演じて人気絶頂の勝新とアウトロー清水次郎長を組み合わせればヒットは不動と、製作会社はふんだのだろうか。現在、大手のレンタルソフト店の勝新太郎コーナーには「兵隊やくざ」「悪名」「座頭市」のいずれも勝新のアウトロー物が置かれているが、『駿河遊侠伝』はない。その後ビデオ化もDVD化もされなかったところをみると、『駿河遊侠伝』は忘れられた作品と認識してよいのだろう。

■大映が勝新で次郎長映画を作っていたちょうど同じ頃、東映は鶴田浩二の次郎長で『次郎長三国志』シリーズを四本製作している。監督のマキノ雅弘は、東映で次郎長映画のメガホンをとる十年前、東宝で同じ村上元三原作の『次郎長三国志』を撮っていて、この東宝版はなんと九部作の長大なシリーズだった。五二年から五四年にかけ、わずか二年足らずのうちに九本が公開されているのだから、当時の映画製作現場がいかに早撮りであったかが判る。

■勝新版次郎長の三作目『駿河遊侠伝 度胸がらす』が公開された一九六五年以降、次郎長は映画館から姿を消す。と言っても次郎長の需要が払底したわけではなく、次郎長はスクリーンからブラウン管に移動したのである。

■前述の『次郎長三国志』が一九六八年に中野誠也の主演でテレビ版が作られ、一九七四年には『次郎長三国志』は再び鶴田浩二の次郎長で全二十三話の連続テレビドラマ化された。興味深い偶然だが、この七十四年は勝新太郎の座頭市がテレビドラマになった年である。時を同じくして座頭市も映画館からお茶の間へ、出現ポイントを変えたのだった。

■それから座頭市が映画館に戻るのには十六年かかる。次郎長にいたっては、実に四十三年の歳月を経なければならなかった。だが半世紀近い空白の後に登場した次郎長映画は、従前の作品を覆すような新たな地平を切り開くものではなかった。二〇〇八年に公開された角川映画『次郎長三国志』はマキノ雅弘の『次郎長三国志』のリメイクで、かつてマキノ自身がセルフリメイクを行っているから、二度あることは三度ある、三度目の正直、の決定版リメイクとして製作されたわけだ。

■監督はマキノ雅彦。俳優津川雅彦の監督名で、津川はマキノ雅弘の甥にあたる。次郎長は中井貴一が演じた。私自身が調べた限りでは、この角川版『次郎長三国志』が、現在どこのレンタルソフト店でも在庫している次郎長映画としてほとんど「唯一」のものだ。

■一般に日本映画の黄金時代は一九五〇年代だと言われている。映画産業最盛期の一九五八年(昭和三十三年)には、実に十一億三千万人が映画館に足を運んだ。日本の人口の十三倍に相当する。ならば最も多くの観客を動員した――多くの日本人が観た――次郎長映画は東宝版『次郎長三国志』と考えて間違いないだろう。

■先に記したように、東宝版『次郎長三国志』は二年間で九本製作という無茶苦茶なスケジュールの中で撮影された。現代のようにビデオカメラ一台あれば映画が作れるというような時代ではない。セットが作られ、照明が当てられ、フィルムが回り、現場には大勢のスタッフが動員される。短期間しか製作時間がとれなければ、当然ながら作品のクオリティは落ちる。ところが東宝版『次郎長三国志』九部作は、カメラワークも俳優の演技も編集も申し分なく、「やっつけ仕事」感が全くないことに驚かされる。これがマキノ雅弘の凄さなのか、当時の日本映画界の底力なのか、なんとも計りかねるが、とにかく邦画の歴史に大きな足跡を残した作品である。にもかかわらず、東宝版『次郎長三国志』も長らくDVD化されず幻の映画だった。

■四十年を越える次郎長映画の不在期間はあまりにも長い。日本が歩んだ高度経済成長-バブル景気-金融破綻、そして新しいテロに直面した二十一世紀のゼロ年代、次郎長は映画館からも映像商品からも消えていた。

■ところが二〇一一年の暮れ、東宝版『次郎長三国志』全九部を収録したDVD-BOXセットが電撃的に市販されたのである。東宝の社長に『次郎長三国志』DVD化を提言したのは、超人気漫画『ワンピース』の作者尾田栄一郎と、ジブリのプロデューサー鈴木敏夫だった。パッケージのイラストを描き下ろした尾田栄一郎はリリースに際して、《これは幕末の任侠・ヤクザ映画です。みんなで叫びましょう、“次郎長ヤベェ!!”》とコメントした。次郎長映画復活の予兆ともとれるようなこの「動き」は何なのか。現代日本のポップカルチャーを牽引する二人は、なぜ『次郎長三国志』を支持したのか。

■私は東宝版『次郎長三国志』のDVDが、東北大震災と同じ年にリリースされたことに因果を感じる。私はずっと次郎長一家の物語を古くさい任侠世界=アウトローの文脈でしかとらえていなかったが、改めて『次郎長三国志』を視聴して気づいたのは、これはポスト311の私たちが必要としている「新しい家族の物語」として読み直すことができるということだ。

■現代のヤクザは企業舎弟という言葉が象徴するようにサラリーマン化し、ほとんど会社組織と変わらなくなっている。対して次郎長と仲間たちは、「一家」であり「家族」なのである。しかしそれは「疑似家族」で、世間で言う「家族」とは異なる。

■次郎長の仲間たちは、親兄弟を捨て、故郷を捨て、いくばくかの漂泊の末に次郎長のもとにたどり着く。彼らのもともとの「家庭」は崩壊している、あるいは天涯孤独の身の上であったりする。そんな故郷喪失者でも家族の再構築が可能であることを、任侠世界が指し示している。

■平穏無事な日常が続く間は法は私たちを守ってくれるが、311のような非常時には、法は何の役にもたたない。天変地異は法の外側で起こり、法治国家の中で生きる私たちはなすすべもない。法の外側に立つアウトローはそんな絶体絶命の緊急事態に機能する。だからと言って次郎長映画の帰還があるとは私には思えない。次郎長一家の物語は、既に別の物語に転生している。くれぐれも「見かけにだまされないように」。今日こどもたちが――もちろん大人たちも――夢中になっている『ワンピース』は正義のヒーローが悪を倒す勧善懲悪の物語ではなく、アナーキーなアウトローが仲間を集めて旅をする「股旅物」、すなわち『次郎長三国志』の新しい形態なのである。

■それでもなお、とあくまでも食い下がるならば、私は映画にならなかった次郎長の物語を待ちたい。どうやら清水次郎長の後半生を描いた次郎長映画は存在しないようだ。明治の黎明期を奔走する次郎長のエピソード群は、切った張ったに明け暮れた若き時代の任侠物語よりも遥かにドラマチックであると私には感じられる。官軍の意に逆らって咸臨丸乗員の戦死者たちを弔い、やがて山岡鉄舟らと関わる中で日本の近代化の一助となった清水次郎長の活躍が私はみたいのだ。

「季刊清水 46号」掲載

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Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 22:19│Comments(0)依頼原稿
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