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蒲菖亭(あべの古書店主人)
蒲菖亭(あべの古書店主人)

2023年12月08日

「十三仏」その5 終

どれが史実か判らない場合は当事者が出している情報を最優先する。誤りだったとしても、大きな失敗感はない。

来迎院のガイドも出典が不明ではあるけれども、私はこれを基準としたい。

《正念寺は、はじめ安倍川千日寺といわれ、川原で処刑された囚人の供養寺であった。正保元年(一六四四)より来迎院の末寺となり、承応三年(一六五四)に、臨終山正念寺と改名された。明治八年(一八七五)十月十一日に、無禄・無檀家のため廃寺となり、本寺である当山に十三佛像も移された。》

私は○○山△△院□□寺の○○山は実在する山の名前を使うものだと思っていた。違った。「臨終山」とはたまげた。それはさておき、十三仏が明治8年(1875)に弥勒の正念寺(廃寺)から来迎院に移されたことは判った。

「開山」と「開基」がどう違うのか判らなかった。
来迎院は廓山上人の開山、徳川家康が開基した。インターネットは本当に便利である、開山と開基の違い、と検索すると《実際に寺院を建立した人を開基、初代の住職となった人を開山とする場合がほとんど》と答えが返ってきた。つまりお店の経営者とやとわれマスターなのだな。正真正銘、徳川家康の寺である。
そこに由比正雪と因縁のあるあれこれが関係してくるのは興味深い。

「十三仏」とは言葉どおり十三の仏である。堂宇には十三様の形状の仏像が置かれている。伝承によると宮城野信夫姉妹(美人)は《父や正雪さらには団七も含めた十三人》を十三仏のそれぞれに託した。では由比正雪に対応した仏はいったい何だったのか。
「横内町の来迎院に十三仏堂がありますが、具体的なことはわかりません。ぜひ皆さんでお調べください」、と黒澤脩ならば「家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて」に書くところである。
調べるまでもなく見に行けば判るので、ここに書いておく。
由比正雪は不動明王であった。座像の元には由比正雪の霊位(位牌)が置かれ、その脇に宮城野信夫姉妹(美人)の位牌がある。

釋慶化尼 宮城野
釋慶幽尼 信夫

これからは時々、姉妹(美人)の供養に来迎院をたずねようと思ったのだった。

終わり。


  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 21:16Comments(0)アーカイヴ

2023年12月08日

「十三仏」その4

宮城県白石市大鷹沢三沢字八枚田の孝子堂は宮城野・信夫の姉妹を祀っている。
史跡となっていて、案内板にはこう書かれている。

《宮城野(実名・まち)・信夫(実名・おその)及び父与太郎の霊を祀り、大正十五年四月孝子堂を建立、静岡市来迎院から姉妹の守護仏弁財天を迎えて安置してあります。》

白石市の孝子堂には来迎院から移された弁財天があるようだ。来迎院が出しているガイドにもそれは記されている。
《大正七年(一九〇〇)に、十三佛堂が新築された。この堂は孝子堂へ弁財天像も移された。》
少々意味が判らない。まず大正7年は1900年ではなく1918年である。これは完全に誤り。続く文章もおかしいが、「大正7年に、来迎院で十三仏堂が新築された。弁財天像は(白石市の)孝子堂へ移された」と解釈する。
ネット上では孝子堂の弁財天の画像が一枚も見つからない。本当に弁財天は孝子堂にあるのだろうか。

また来迎院のガイドを引用する。
《やがて慶安四年(一六五一)に正雪が幕府転覆を企てるも、未然に発覚し、駿府梅屋旅館にて自刃した。その首級は安倍川原にさらされた。これを知った姉妹は駿府に赴き、師の首級を盗み出して葬り、刑場に近い弥勒の正念寺内に庵室を結んだ。姉妹は、その庵に、十三体の仏像を安置し、父や正雪さらには団七も含めた十三人の菩提を弔ったという。さらに彼女らは尼となり一生涯その身を供養に捧げた。なお宮城野・信夫姉妹は日本孝子伝にも列せられている。》

庵室とは尼僧が居住する小屋である。宮城野信夫は弥勒の正念寺に庵寺を設け、そこに十三仏を置いて正雪たちを供養したと。尼なったことは白石市の宮城野信夫を紹介する記事と一致する。

では黒澤脩の「家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて」にあげた情報は誤りなのだろうか。
黒澤文では、由比正雪の首を盗み出したのは正雪の遠縁のもので、ネット上のブロガーたちはこれを引用している。
黒澤文では、弥勒町の檜稲荷に十三仏があり、その情報の出典は『本朝諸数 伊豆・駿河・遠江』である。しかしそのような文書・典籍の存在は、少なくともネットでは確認できない。
まさか著名な学者が偽歴史を堂々と広めるとは思えない。当方が無学なだけだろう。

続く。



画像は来迎院の「十三仏堂」。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 21:11Comments(0)アーカイヴ

2023年12月08日

「十三仏」その3

法月吐志楼の『二番煎じ』から引用する。

《静岡来迎院にある、十三仏の供養をやるということを新聞でみた。十三仏は由比正雪に関係のある、宮城野信夫の建立と伝えられるものであって、昨年(昭二十六)は正雪の三百年祭が、安倍川畔の弥勒町(みろく)で盛んに行われたことでもあるので、十三仏の供養をやることは、まことに結構なことである。》

まずこの記事が書かれたのは昭和27年(1952)年。この時には十三仏は来迎院にある。
前年の昭和26年(1951)には正雪の三百年祭が弥勒で盛んに行われた。没後三百年祭ということになる。
十三仏は「宮城野信夫」が建立した。これは男性個人名ではない。「宮城野(みやぎの)」と「信夫(しのぶ)」の姉妹である。自分も歴史捏造派の一人として、この姉妹を「美人姉妹」としておく。

黒澤脩の「家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて」で十三仏を調べると、「駿府城下の七不思議」の項に、
《7.弥勒町(みろくちょう)十三仏の檜(ひのき)稲荷
注記:「本朝諸数 伊豆・駿河・遠江」に出ていますが、具体的なことはわかりません。ぜひ皆さんでお調べください。》
と書かれている。知らんけど、お前らで調べとけ、とのことだ。
私のようなドシロートには「本朝諸数」が判らない。当然ネットで検索する。ヒットしない。上記の黒澤が書いた文章の一語だけが唯一の同定である。「本朝諸社」という典籍はある。これは誤字ではないかとも考えるが、「本朝諸数」が実際に存在する可能性も捨てることは出来ない。《皆さんでお調べください。》と上段から言っているのだから、誤記誤植でそのような本は実在しないのです、などとは夢にも思わぬ。

それよりも宮城野と信夫の美人姉妹のこと。
二人は静岡人ではない。宮城県白石市大鷹沢三沢の農民の娘である。父親を剣士の志賀団七に殺され、その仇討ちのために江戸に出て剣術家の由比正雪の弟子となる。正雪は姉の宮城野に鎖鎌と手裏剣を、妹の信夫には薙刀を教えた。宮城野・信夫という名前も正雪が命名したものである。五年の修行の後に姉妹は郷里に戻り、幕府公認の果たし合いの元、父の仇討ちを果たした。
私は以上をネット記事で見つけた。その後の二人の人生は次のように書かれている。

《姉妹は、親のかたきとはいえ、武士を切ったつみをわびるため、その場で死のうとしました。それを止めようとする人々の声によって思いとどまった姉妹は、かみを切り静岡の弥勒寺(みろくじ)のそばにいおりをたてました。宮城野62才、信夫64才でなくなるまで、ほとけにつかえました。》

続く。


  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 21:02Comments(0)アーカイヴ

2023年12月08日

「十三仏」その2

大御所四百年祭の折に黒澤脩が書いた「家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて」には、正雪の首について次のような記事がある。

《由比正雪の首は、この河原に曝(さら)されていた。その首は、遠縁にあたる女性が盗み出して寺町の菩提樹院に埋葬した。》

この記述では弥勒の由比正雪首塚が存在しない。首はいきなり菩提樹院に埋葬されている。
正雪の死去は慶安4年(1651年)なので、屍の損耗を考えれば、その1、2年後には《遠縁にあたる女性》が晒し首を奪還しているのだろう。寺町にあった菩提樹院は昭和15年(1940)の静岡大火で焼失したため、沓谷に移転した。「正覚山菩提樹院」、寺号がない。ますます判らない、山・院・寺問題。
それで、《遠縁にあたる女性》って誰?問題。
菩提樹院ではどう言っているのだろうか。
菩提樹院のインターネットサイトは見つけられなかったが、好事家がブログで以下のように紹介している。

《安倍川の河原でさらし首とされていたが、縁者が密かに運び出され菩提樹院に葬ったと言われている。》

これは!「と言われている話法」!
筆者は黒澤脩の記事を使ったか、あるいは黒澤と同じソースを参照したのだろう。
「静岡観光お出かけガイド」というサイトが《安倍川の河原でさらし首にされた後、縁者が菩提樹院に葬り五輪塔を建てて供養しました。》と、他とほぼ同文の紹介。しかしこの案内で正雪の首塚には五輪塔がたっていると判った。
それで、《縁者》とは誰?問題。
おやおや、このようにも書かれている。

《その首を盗んだ縁者が、寺町(現在の常盤公園の場所)にあった菩提樹院に首を葬り、五輪塔を建てて供養。
昭和21年(1946年)に実施された静岡市の区画整理により、首塚は菩提樹院とともに現在地に移転されています。》

五輪塔は江戸時代から寺町の菩提樹院にあった、と。
首塚の移転は昭和21年(1946)以降である、と。
すると昭和15年の静岡大火から昭和21年までの間、菩提樹院はどうなっていたのだろう。寺町は焼け跡のままだったのだろうか?

続く。



虚無僧姿のハンサムキャラが由比正雪。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 20:58Comments(0)アーカイヴ

2023年12月08日

「十三仏」その1

十三仏が英長寺にあると書いた本があったので、それは違うだろう十三仏があるのは来迎院だぞ、と思ったのだ。
違わなかった。
来迎院は英長寺という。
私は「院号」と「寺号」の使い分けが判らない。さらに「山号」がある。○○山△△院□□寺と正式には言うようだ。いろいろ判らない。義務教育の授業でちゃんと習っておけばよかった。
十三仏のこともよくは知らなかった。
私の知識は、
昔々弥勒に十三仏があったが横内の来迎院に移された、そして十三仏は由比正雪と関わりがあるらしい、
この程度だった。
私が知るところをもう少し広げると、
江戸時代の前期、現在の静岡市宮ヶ崎に由比正雪が生まれた。
江戸に出て軍学者となった。幕府転覆を謀ったが計画が露見した。
これは本人には謀反の意志はなく、軍学として江戸城攻略のシミュレーションを弟子たちとともに机上で行ったことが問題になった。
正雪は幕府から指名手配され、静岡市人宿町の旅館で追っ手に囲まれたため自害した。
遺体は斬首され、その首が現在の安倍川橋東側の弥勒にさらされ、後に同所に正雪の首塚ができた。そばに十三仏を奉る堂宇が置かれた。
首塚は静岡市沓谷に移され、十三仏は静岡市横内の来迎院に移された。
ひとつひとつの出来事に年号がついていなければ記録としては怪しい。「と言われている」史、というものがあって郷土史家を名乗る人たちがよく使う。家康は二人いたと言われているとか、信長は実は女だと言われている、の類いの史談。
日頃から私は「と言われている話法」を笑ってはいるが、自分も五十歩百歩である。
もう少しきちんと知っておきたいと思い、大用山来迎院英長寺をたずねた。

続く。



  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 20:52Comments(0)アーカイヴ

2023年11月14日

下村声峰

 時代の進歩と科学の発達によって、銅鉄や石材に替る廉価でかつ堅牢なコンクリートが世上に現われてから、既に数十年を経過、日毎に研究されてきている。
 そして堅牢なコンクリート製彫刻や塑像が、続々世上に出現するようになったことは実に喜びの限りである。
 戦前、九州別府と、名古屋に、奈良の大仏より遥かに大きな大仏がコンクリートで作られた。ついで群馬県高崎市の音羽山に、高さ四十一米という巨大な白衣観音が製作され、世男一ともいわれていたが、又々戦後洛陽高台寺に霊山観音が開眼された。技術の進歩の著しきには驚かされるものがある。
 大慈悲の名仏彫塑家と肩をならべて、その技を高く評価された人に声峰下村三代吉翁があった。翁は明治十五年六月、静岡県焼津市に生れ、明治四十二年東都に出て左官業務のかたわら、画家の指導を受け彩管の道にも勤しんだ。
 大正九年静岡市に帝国鉄筋コンクリート会社誕生するや、その社の工務員として、遠く北海道帯広市に往し、鉄筋コンクリート工事に従事し、大正十二年静岡市に来住、十三年相生町に居を構えた。昭和十三年に再び焼津市に移り住んだ。
 翁は夙に漆喰彫刻に長じ、人物塑像、花鳥、動物等の製作に巧みで、先輩巨匠、森田鶴堂翁に次ぐ名手として世上既に定評のある人であり、昭和五年頃より、鉄筋コンクリートセメント製仏像製作の研究に着手せられ、将来必ずや斯うした技術は進歩し、その利用度の多きを推察、極力その道の大家について指導を受け、且つ研究の結果、その手初めに静岡県伊豆国下田在、来宮神社の御神像を、精進潔斎して謹製した。
その一生を終るまで、大作、小作数十を数えるほどであった。主なるものに

 静岡県志太郡藤枝市火葬場地蔵尊、身長六尺五寸、昭和十年開眼
 静岡県浜名郡館山寺山頂聖観世音、身長三十三尺五寸、昭和十年開眼

 この御像が浜名湖上より二百尺、同湖畔随一の景勝地である館山寺の山頂に安置せられた偉観は、名実共に東海一の眺めで称がある。
 尚同観音は、弘法大師一千百年遠忌を機に、その御偉業と御聖徳を追慕して、この由緒を広く中外に紹介するため、館山寺保勝会と浜松地方有志の発起によって建設せられたもので、この工事も約半歳の日時と巨額な浄財にてまかなわれた、令息平八郎も完成まで助手として従事した。

 神奈川県津久井郡葉山島東林寺、弘法大師、身長六尺五寸、昭和十年十月開眼
 静岡県伊豆下田町、浦島太郎、身長一丈八尺、昭和十一年九月開眼
 浜松市火葬場、地蔵尊、身長二十二尺、台座十二尺、昭和十一年九月開眼

この像の台に左記和歌が認めてある。

    万人の仏性宿す地蔵尊
        今ぞ浮びて功徳広大

 神奈川県津久井郡葉山小学校、二宮金次郎、身長四尺五寸、昭和十一年十二月開眼
 静岡市大浜公園、山田長政公
 浜松市瑞雲寺、観世音、昭和十二年七月十六日開眼
 志太郡滝之谷不動峡、不動尊、身長一丈六尺、昭和十二年八月四日開眼

この地は渓谷百景の一になっている場所である。

 焼津市横町北之辻、猿田彦命、身長六尺五寸、昭和十二年七月開眼
 藤枝市成田山、開祖像、身長六尺五寸、昭和十三年十二月十日開眼

又焼津市小川の海蔵寺には、

 武将出陣之図、一之谷敦盛呼返之図、賽の河原の図

の三面の額が極彩色で美事に塗られ掲げられてあるが、作は昭和十七年八月の製作である。尚焼津市塩津の菩提寺、時宗阿弥陀寺には毘沙門天外七謳の仏像の作品がある。
 磐田郡袋井町村松の医玉山油山寺に建立の茶祖栄西禅師の御像は住職鈴木快存師の発願にかかり、県内の茶業界有志の浄財其他に依って建立せられた。身長二十尺、台座十五尺。昭和二十五年九月一日より十一月末まで精魂を傾けて、献身的に施行した。筆者もその折り、助手として之にたづさわった。その間、竜宮城と浦島太郎、乙姫の等身大の塑像も作製せられた。
 塑像としての作品はこれが最終のものとなった。この折翁は古稀の齢であったが、三十余尺の高い足代の上でも高齢者という足取りではなく、その意気、精神は若い者をしのぐ程で浙った。
 尊像開眼式は、昭和二十七年五月三日の新茶の季八十八夜当日であったが、あいにくと声峰師は病気療養中であったので参列する事が出来得なかった。筆者は式場で扇の禅師讃歌を代読した。

    誠心をこめて吾が手に塗り上げし
        御像拝がめばにことほほ笑む

 ついでに筆者の吟は

    国富ます宝のお茶を植え初めし
        禅師の徳や今日ぞ輝やく

 当日の式典参列者は、河井弥八氏、足立篤郎氏、袋井町長其他六百有余名を算える盛大であった。声峰師の大作は以上の如きであるが、其他東郷元帥、乃木将軍、楠公、二宮金次郎又一般家庭よりの依頼の立像、額、壁画、擬石、擬木は数えきれない程ある。特に真にせまって良く出来たものに焼津市、村本千代子先生の等身大の座像があるが。実に生けるが如き寿像である。神奈川県へは屡々出張し、中にも高座郡上溝の中村医院の院長胸像は、昭和二十七年春一月の製作で最後の作品となった。
 またかつて焼津市の渡仲、小山両氏が主となり、近辺の同業の子弟を集めて翁を師と仰ぎ講習会を開き、その指導に当り、後進の進歩向上に尽くされた。翁は昭和二十七年二月より病床に臥し、遂に立たず、同二十八年三月二日、七十三歳の高齢を以って焼津市昭和通りの自宅で永眠せられた。
 同市阿弥陀寺にその墓がある。翁は極めて無慾淡白な性質で酒はたしなんだが、酔えば必ずにこにこと笑いをうかべる笑い上戸であり、常に無口で遠慮がちであった。煙草は大好きで手から離した事がなかった。
 筆者は、政教社を訪れるたびに玄関を守って居る塑像とは思えない、今にも吠え出しそうな洋犬を見て、声峰師の作品の生きているような感じを想うにつけ、その鏝先の妙技や貴さをば心中に回想する。


(白鳥金次郎『静岡名人畸人傳』-「下村声峰」)  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 18:00Comments(0)アーカイヴ

2023年11月05日

2002年4月

古本と古書はどう違うのか。古本=中古本を意味するのに比べ「古書」はなんとなく聞こえがいい。稀覯本や特装本のイメージがある。両者に厳密な区別があるわけではないけれども、古書店主は各々、微妙に使い分けているようだ。高額な「古本」を古書と言ったり、絶版となった書籍はとりあえず古書と位置づけたり、戦前に刊行された書籍を総じて古書としたり。江戸期以前の和本は古典籍と呼ばれる。主として写本で、億単位の値が付くこともある。国宝級の「古本」は、とても町の古書店風情が扱えるものではない。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 22:10Comments(0)依頼原稿街角通信

2023年11月04日

2002年3月

「なんだおたくのこの売値は、もとの価格よりも高いではないか!」と、気色ばんだ客に詰め寄られることがある。例えば昭和42年に70円で刊行された二葉亭四迷の『平凡』(角川文庫)が、当店では絶版文庫として500円の値が付けられている。それを悪徳商売だと抗議してくるのである。たしかに「もとの価格よりも高い」。が、現在『平凡』は各社の文学全集以外では、講談社文芸文庫に収録されているものでしか読めない。同書の本体価格は1050円である。あれこれ説明してみても、クレーマーは納得しない。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 00:33Comments(0)依頼原稿街角通信

2023年11月02日

『大連医院の看護婦』

失礼いたします、お呼びでしたか、旦那様?
私宛に手紙が届いている? これですか?
まあ、満州から。
はい、判ります、私が大連医院に勤めていた頃の同僚です。
ええ、大連医院です。
ああ、旦那様はこの町にいらして間もないですから、昔の事はご存じないのですね。
子供たちが聖ヨハネサナトリウムと呼んでいる療養所が宮下町にありますでしょう、ええ、山本医院、あの病院が震災前までは大連医院だったのです。
懐かしいですね。とても懐かしいです。
三階建ての洋館、半円形のバルコニー、中庭の噴水、フランス窓と消毒液の匂い、白い清潔なカーテン。
住み込みで勤務していた私たちは、同じ部屋を使っておりました。
部屋の壁には彼女が貼った写真があります。
サグラダ・ファミリア。
スペインの建築家が設計した教会です。
今も普請中なのです。なんでも完成までには三百年かかるそうなのです。
それから私たちは最新式の蓄音機を持っていました。
レコードはサティのピアノ曲集が一枚きりでしたが、毎日飽きもせず、くり返しくり返しその旋律に耳を傾けました。
私たちは仲の良いともだちだったのですよ。
いろいろな事を語り合いました。
特に芸術の話では、私たちはとても気が合いました。
小説の話、絵画の話、演劇の話、音楽の話、映画の話。
いま思い出しましたが、彼女は大陸に渡るとき、映画女優になるのだと言っていました。
手紙には甘粕さんのお世話になっていると書かれていますから、きっと映画関係のお仕事をしているのでしょうね。
はい、満州映画会社総裁の甘粕正彦さん、ええ、そうです、元憲兵隊長の。
関東大震災のどさくさの時に、甘粕さんは主義者の夫婦とその子供まで殺してしまったそうですが、いまのご時世は人殺しでも芸術家になれるんですね。
いえ、私は主義者には共感しませんけど、頑是無い子供まで殺めたと聞くと心が痛みます。
彼女がそんな人の仲間だと思うと、ちょっと複雑な気持ちです。

山本医院の建物をぐるりと取り囲んで十二本の桜の樹が立っていますね。
判りますか?
私が勤めはじめた当時は、病院の桜の樹は十三本あったのです。
でも、その十三という数を嫌った患者さんがいたのです。
それは桜が満開の四月のある日、入院していた男性の患者さんが、どこからかエンジンのついたチェーンソーを院内に持ち込んだのです。
男は周囲の者が止める間もなく不運な桜の樹を伐り倒してしまった。
そして仕事を終えると、チェーンソーを掴んだまま病院長の部屋にのりこみ、桜の樹を伐ったのはわたしです、わたしが伐りましたと喚きちらしたのです。
怒った院長はその患者を地下室に監禁してしまいました。
ええ、病院長だった伴五郎先生。
桜を伐った男は、二度と地下の暗がりから出てくることはありませんでした。
そのまま放置されてしまったとか、震災で地下室が埋まってしまったとか、いろいろ噂がありましたが、本当のところは判りません。
そういえば、地下室の鍵を持っていたのは彼女でした。
この手紙の彼女です。
彼女と伴先生で、チェーンソー男を地下室に放り込んだのです。
もし今でも、小さな石碑が庭の隅に残っていれば、そこにはローマ字で「ワシントン」と刻まれているはずです。
ワシントンは院長が飼っていたセントバーナード犬の名前ではなくて、桜を伐った患者の事なのです。
石碑は男の墓だと誰かが言っていました。

あっ、いま急に思い出したことがあるのですが、お話ししてもよろしいでしょうか?
はい。
病院の患者さんに、自分を看護婦だと思っている女性がいたのです。
看護婦の制服を盗んできては、それを着て病院の中をうろうろするのですが、あんまり堂々としているので他の患者さんたちはうっかりして本物の看護婦だと思ってしまうのです。
すると女性は勝手に患者さんを診察したりでたらめな治療を行ったりするのです。
ベッドで寝たきりの患者さんにいい加減な点滴をしてしまった時は、病院中大騒ぎになりました。
それでも頭の良い女性でしたから、そのうち病院長が思いついて、わたしたち正規の看護婦の下働きをさせるようにしました。
そういえば、地下室の鍵を持っていたのは彼女でした。
え? この手紙を書いた女? 私、そんな事を言いましたか?

--

さて、これがぼくたちがあの人から聞いた話だ。
あの人の語りはまるで映画をみているようだった。
ぼくたちの頭の中に戦前の宮下町がくっきりと立ち上がった。
狭い裏路地はミノタウロスの迷宮のように複雑怪奇に交錯している。
迷路の中心に一ヶ所だけ、抜け道のない袋小路がある。
そのつきあたりに十二本の桜の樹に囲まれた大連医院があった。
いまでは建物は跡形もなく、敷地は月極の駐車場になっていて、一本だけ桜の樹が残っている。
白いプラスチックのプレートが取り付けられていて、エリザベートとカタカナで書かれている。
あの人が言っていた石碑、ワシントンと刻まれた石碑はない。どこかに埋まっていて、見つからないだけかもしれない。
エリザベートが一本だけになった桜の樹の名前であると判ったのは、タバコ屋の老人の昔話からだ。
大連医院の桜の樹のうち、毎年春の訪れと共に真っ先に花を咲かせ、他のどの樹よりも長く花を散らさずにいる樹がエリザベートと呼ばれていた。老人は名前の由来までは知らなかったが、桜の樹は老木ほど早く開花すると教えてくれた。

エリザベートはあの人の病室の目の前に立っている。南に面した窓を開けて身を乗り出せば、エリザベートの枝先に手が届く。風がざっと吹けば花びらが病室のベッドのシーツの上にも散ったかもしれない。衛生観念がいまよりもずっとゆるい時代には、そんなことも可能だった。

どこまでが本当なのか。たぶん全部つくり話だ。甚だ怪しげな逸話であり、出来過ぎた事件であり、そもそも桜の樹を伐り倒した患者の話にしても、当時の日本にはエンジン式のチェーンソーはなかったはずだ。けれどもぼくたちのような子供にとっては、それが定説で、またぼくたちには、あの人の話を嘘だと追求すべき理由もなかったのだ。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 01:26Comments(0)演劇

2023年10月30日

2002年2月

『悪魔の飽食』はありませんか、と最近よく訊かれる。森村誠一が旧日本陸軍731石井部隊の記録を追跡し、大ベストセラーとなった本だ。そういえばいつの頃からか、うちの店では見かけなくなった。731部隊は細菌戦を想定した研究を中国で行い、捕虜や民間人に対して悪夢のような人体実験をくり返していた。先般米国でばら撒かれた炭疸菌も、もとをたどれば731部隊が開発したものだという噂もある。インターネットで検索したら、角川文庫版が、まだ新刊書店で入手できるようだ。急に読みたくなった。  

Posted by 蒲菖亭(あべの古書店主人) at 23:27Comments(0)依頼原稿街角通信